葉桜の君に

白湊ユキ


春川桜子はるかわさくらこ。趣味は桜の葉を切り落とすことです」


 その発言は、クラスメイト全員の怪訝な眼差しを一身に集めた。背中越しにも視線を感じるので、見回せば三百六十度から注目を浴びている事だろう。

 教壇に立っている担任の秋田葉太あきたようた(三十七歳)は、肩を落とし、半開きの口の中で「へぇ……」と呟いた。


 秋田は背が高くひょろっとしたシルエットをしていた。短髪にきちんとアイロンのかかったスーツ姿は、教師のテンプレ通りと形容しても良いかもしれない。

 しかし、銀縁の眼鏡の奥に覗く細長い双眸がどうしても気に入らない。


 入学式の後、最初のホームルームで目が合った瞬間に、言いようのない目眩と吐き気を覚えた。この先生を好ましく思う未来が全く思い描けなかった。

 私は即座にそれを、自分の極端な女尊男卑によるものだと結論付けた。こうなるのが嫌で、わざわざ通学に一時間も掛かる女子高に入学したのに。面接でほとんどの先生が女性だと説明されたから、一も二もなくここを選んだのに。

 その遣る瀬ない怒りが、決して小さくない犠牲を顧みず、私に不穏当な発言を口走らせた。これで、向こう一年間の交友関係は絶望的だろうと思うと、また苛立ちが募る。


 本当に、気に入らない。




   *




 仕方ないので本当に桜の葉を切ってみる事にした。


 部活動が盛んと言われる我が校内でもあまり目立たない園芸部に即日入部して、朝、ロッカーからこっそりと持ち手の赤い高枝切り鋏を拝借する。しかし、向かうのは園芸部の活動場所である旧校舎の中庭——ビニールの温室ではない。

 学校の裏庭のフェンスの境目から伸びた細い道に入っていく。


 ——そこは、一面の桜。

 長く垂れ下がった枝が揺れると、一房一房が擦れ合って、淡く花弁を散らしていく。柔らかな朝日に包み込まれるように照らされた花弁は、そよ風の中を舞って、やがて湿った土の上に落ちる。

 樹齢はいくつなんだろう。中央に生えている枝垂れ桜の巨樹を見上げる。その枝垂れ桜を守るかのように、何本ものソメイヨシノが園内を取り囲んでいて、二種類の桜がどちらも満開になっている。


 頬をぬるい風が撫でていく。


 これほどの絶景にも関わらず、四方を古い民家に囲まれているせいで、認知度は案外高くない。学校の敷地であることも一因かもしれない。知る人ぞ知る桜の名所——桜の園だ。

 つまり、桜以外は誰も見ていない。

 伸縮式の高枝切り鋏を伸ばすと、私の身長よりちょっと長かった。


『桜の色は白とセピア。素敵ね。ウェディングドレスに包まれているような気分』

『あなたの名前と一緒よ』


 この桜の園で母は、私の目線までしゃがんで頭を撫でてくれた。

 枝垂れ桜とソメイヨシノ——花の色は違えど、一口に纏めれば薄紅と言ったところ。母と私の見えている景色は似ているようでちょっと違う。それは私たち母子おやこの常識だ。

 でも、この丸くて縁がギザギザした葉っぱもまた、少し濃いセピアに見えると教えられた時は、水を差されたような気持ちになった。


 ——何でこんな事をやってるんだろうね。


 頭の上まで垂れ下がった枝に花を追い立てるかのように生える緑色の葉っぱを見つけて、鋏の先端を近づける。

 別に桜そのものに恨みがある訳でもなく。自分に対して引っ込みがつかなくなっただけなのは、この時点でぼんやりと理解していた。

 切りたくなんて——傷つけたくなんて、ある訳ない。


「あんまり感心しないな、春川。自分の名前なんだから知っとけ。デリケートなんだぞ、桜は」


 喉の底から捻り出したような低い声と共に、背後から高枝切り鋏の竿の部分を掴まれる。


 ——誰?


 私のフルネームを知っている人。

 母を呼び出されて生徒指導室で叱られる未来が走馬灯のように駆け巡る。私はそうなって安心したのかもしれない。振り返って、その相手を確かめる。


 ——秋田葉太……先生。

 その人が私を抱きすくめんばかりの距離にいる。その人から漂うデオドラントスプレーの香りが鼻腔に滞留する。

 それに気付いた瞬間、背筋から冷や汗が出始めた。貧血を起こしたような気持ち悪さに揉まれて、私は背中から水面に落ちるように意識を手放した。




 次に目を覚ました時、私はベンチの上で横になっていた。太い木の棒を簀子のように並べて作られた座面は一見柔らかそうだけれど、やっぱり硬い。頭の下だけには枕がある。何かと思って確かめたら、秋田先生の上着だった。

 ベスト姿の秋田先生がベンチの背もたれに尻を乗せて、私を見下ろしている。何を考えているか分からない眼鏡越しの細長い瞳でじぃっと。


「元気になったか? すまんな、まさか倒れるとは思わなかった」


「セクハラで訴えようかな」


「何もしてないが。それより春川の奇行の方が問題になりそうだな」


「私だって、結局何もしてないしっ」


 淡々とこちらの弱いところをついてくる秋田先生を無視して、私はベンチから飛び上がる。畳んであった赤い持ち手の高枝切り鋏を引っ掴み、校舎側に繋がる道に向かって歩き出す。


「てか、せんせ。そのデオドラントスプレー、女物だよ」


「ご忠告どうも」


 背中越しに感じる秋田先生に向かって捨て台詞を吐き、今度こそ校舎に戻る。

 秋田先生は気にせずと言った風に、ベンチに座ってタバコを吹かし始めた。


 やっぱり、気に入らない。




   *




 次の日、桜の園に来たら、秋田先生がベンチに腰掛けて、専門書らしい難しそうな本を読んでいた。

 こちらから話しかけるのも癪だったので、何の本か覗いてやった。しかし、そこに踊っていた文字は日本語ですらなかった。複雑な数式が書いてあって、辛うじて数学っぽいという事だけ理解できた。ピアノが似合いそうな骨張ったしなやかな指がページを捲る。

 しっかりと一人分の隙間を空けて、私もベンチに座る。


「昼休みだぞ。教室にいなくて良いのか?」


「お生憎様。誰かさんのおかげでデビューに失敗しまして」


 特等席で聞いていたくせに、白々しい。


「せんせこそ、お暇なんですか?」


「それこそ誰かさんが奇行に走らないように見張ってんだよ」


 先生を見ているよりずっとマシだったので、ひらひらと散りゆく花びらを見ていた。眼鏡の奥の細長い視線を、頬の辺りに感じる。


「ふぅん——、じゃあ、口説いてるとか?」


 言ってみてまた鳥肌が立った。もう二度とこの人に身体を触られるような隙を見せてはならない。深呼吸、深呼吸……。


「冗談言え、口説かないよ」


「先生だから?」


「生徒だから口説かないって意味じゃない。春川はそもそも対象外だ」


 私はってどういう意味だろう。他の生徒だったら口説くんだろうか。

 自分の身体を見回してみる。身長も体重もほぼ標準値。凹凸もありすぎないくらいにある。顔は多分、可もなく不可もなく。

 ふと、唐突な思いつきと共に嫌悪感が這い上がってきて、思わず秋田先生に顔を向けてしまう。


「——ロリコン……?」


「違うっつの」


 その人は私から視線を外して、枝垂れ桜の巨樹を見上げる。


「俺が好きになったのは、後にも先にも一人だけって話だよ」


 私を置いてけぼりにして、秋田先生は遠い目をどこかへと馳せる。

 春よ盛れとばかりに咲き散らす二色の桜の情景に、何を重ね合わせているんだろう。この人は嫌いだけれど、見ている景色は気になる。それがまた——。


 甚だしく、気に入らない。




   *




 数学の授業は秋田先生の担当だった。抑揚の薄い低い声音を変えずに淡々と、板書を読み上げて二次関数の説明をする。

 白いチョークで書かれた数式は丸っこい文字だが読みやすく、他の先生のようにカラフルではないけど、ピンポイントに使われる黄色は的確で分かりやすい。同級生達にも好評らしいのがまた腹立たしい。

 週に三回あるこの時間が非常に耐え難い。他にも男性の先生は何人かいるけれど、そちらは普通に無難にやっている。極端な女尊男卑と自認してはいるが、別に全ての男性に拒絶反応が出るという事もないのだ。異質なのは秋田先生に対してだけ。


 教室を何気なく見渡すと、ブレザーを着た女子生徒たちが黒板を書き写すのに集中している。あの人は板書を容赦なく消すからみんな必死だ。

 などと取り止めもない事を考えていたせいか、消しゴムを落としてしまう。それは前の席に転がって行って、その子の上履きの踵に当たって止まった。


 その子はカバーがまだ綺麗なMONOの消しゴムを拾うと、私の方に控え目に身体を向けて首を傾げる。私はこくんと頷き返す。

 前の席なのにじっくりと見るのは初めてだ。つり目がちで大きな瞳、薄い唇に優しい色のリップを塗った女の子がニコニコと笑いかけてくる。ええと、名前は確か————。

 愛想笑いで返したところに、彼女は小声で話しかけてくる。


「桜の子だよね。桜子さん」


「えっと……夏岡なつおか、さん」


「うい。授業終わったらお話ししようよ」


「う、うん」


 彼女から受け取った消しゴムをじぃっと見つめてしまう。


 ——あれ、どうしよう。


 肺が熱っぽい空気を送ってきて、ちょっと息苦しい。


 ——これがそうなの?

 ——こんなに呆気ないものだったの?


 そこから先、秋田先生の声も授業もまったく気に障らなかった。というか、耳に残りようがなかった。とくんとくんと、心臓の音ばかりが聞こえていたから。




   ***続く***

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る