第2節 委員長の誤解を解くのに圭太は大いに難儀した。
委員長の誤解を解くのに圭太は大いに難儀した。
同じ説明を何度も何度も、小一時間ほども繰り返しただろうか。
ようやく一応の納得は得られたようだった。
疑惑が晴れると彼女はクラス委員長らしく甲斐甲斐しく美々面の世話を焼き始めた。
うろたえるだけの圭太を尻目に濡れた美々面の体を綺麗にしてやり、外で女の子用の下着まで買ってきてくれた。
美々面は日曜朝に放送している変身ヒロインがプリントされた下着に履き替えると、なにやら満足げな様子でソファーを再占拠した。
「下着まで買ってきてくれてホントにありがとう、委員長。
僕じゃ恥ずかしくてとても買えなかったよ」
「ううん、いいの」
委員長はさきほどとは打って変わった穏やかな表情で答えた。
「まあ私も恥ずかしかったんだけどね」
「えっ、どうして?」
女の子が女の子用の下着を買うのに何が恥ずかしいのだろうと圭太は思ったのだ。
「それは…」
少し躊躇ってから委員長は答える。
「店員さんに自分で履くために買ったと思われたらどうしようって思って」
圭太は恥ずかしそうに女児用の下着を買う委員長の姿を想像して、思わず噴き出してしまった。
「笑い事じゃないよ」
圭太を詰る声は打ち解けた柔らかいものだった。
先生によってかき乱された平穏がようやく戻ってきた心地がした。
しかしそんな安らいだ気分も、これから先のことを考えるとすぐに暗澹としたものに変わった。
そんな圭太の様子を見て委員長が尋ねる。
「これからどうするの」
圭太はしばらく黙っていたがやがて、どうしようか、と独り言のように呟いた。
「校長先生に話したら」
見かねた委員長が提案した。
しかし圭太はうーんと煮え切らない返事をした。
「それよりもさ、とりあえずこの子を委員長の家で預かれないかな。
委員長の家なら大人もいるしここに置いておくよりもよっぽどいいと思うけど」
急な提案に委員長は驚く。
だが圭太の言うとおり美々面をここに置いておくのも不都合だと考えたのだろう。
おもむろに母親に電話をかけ始めた。
「あっ、お母さん?
えーっと……」
相手が電話に出ると委員長は何と切り出したらいいか分からないといった風だったが、やがてしどろもどろになりながら状況を説明し始めた。
一通りの説明が終わると、今度は相手からなにやら猛烈な反論を受けているようだった。
委員長はなんとか食い下がろうとするも、次第に口数も少なくなっていき、やがて「うん、分かった」と言って電話を切った。
そして弱弱しい声で、ウチはダメみたい、と言った。
無理もない。
突然女の子を預かりたいなどと言われても素直に受け入れる母親などそうはいないだろう。
圭太もそれ以上は何も言わなかった。
「いっそ警察に相談したらどうかな」
自分の家で預かれなかったことに責任を感じているのか委員長は代わりの案を出した。
「いや、それじゃあ大事になっちゃうから」
圭太の答えに委員長は不服そうな顔をした。
大事になるようなことをしている先生が悪いんではないか、と言いたげだった。
「とりあえず明日先生と話してみるよ」
「そう?」
委員長は圭太の判断に納得していない様子だったがそれ以上は口を挟まなかった。
力になれない自分にはどうこう言う権利は無いと思っているのかもしれなかった。
結局、先生の思惑通り美々面はしばらく圭太が預かることになってしまった。
ずいぶん話し込んでいたのか気付けば窓の外はもう暗くなっている。
あんまり遅くまで引き止めても悪いと思い圭太は委員長に帰宅を勧めた。
委員長は美々面のことを心配して中々腰を上げなかったが、何度か圭太に勧められてようやく帰り支度を始めた。
「あ、そうだ美々面ちゃん」
委員長は帰り際に思い出したようにそう言うと美々面に近づいた。
彼女は美々面の手をとると小さな掌になにやら丸っこいおもちゃかキーホルダーのようなものを乗せた。
美々面は不思議そうに掌の上でその機械を転がしていた。
「何それ」
横から見ていた圭太が尋ねると、
「防犯ブザー」
委員長は圭太の方は見ずに答えた。
「もし変なことをされそうになったら、このピンを引っ張るんだよ」
優しい声で美々面にブザーの使い方を教える委員長。
そのとき初めて圭太は彼女の誤解が完全に解けていなかったことを知った。
用意周到にも美々面の下着を買いに行ったときに一緒に防犯ブザー買っておいたのだろう。
圭太はどんな顔をしていいか分からず、二人のやりとりを黙って見ていることしかできなかった。
委員長が帰ってしまうと圭太はまた美々面と部屋で二人きりになってしまった。
いつも寛いでいるソファーは美々面が占拠してしまっている。
圭太は仕方なくベットで横になると読みかけの文庫本を開いた。
それは先生から――先生は文芸部の顧問を務めていた――読書課題として渡された古い小説だった。
もとより読書が好きでもない圭太にとってその小説は冗長で退屈で読むのも苦痛で、それに加えて今日は部屋の中に異物がいた。
ちっとも集中できなくて数ページだけ読むとすぐ投げ出してしまった。
そのままベットで眠くも無い目を閉じていると、先ほどまで頻繁に聞こえていた鼻をすんすん鳴らす音がいつのまにか止んでいることに気付いた。
ソファーの方を見ると美々面はいつの間にか寝てしまっていた。
圭太は部屋に一枚しかない布団を掛けてやるとベットに戻って横になった。
運動の後に感じるようなものとは違う、体全体が重くなるような疲労を感じた。
それはあの先生と関わっていると時折感じる感覚だった。
明日は学校で先生を問い詰めてなんとしても美々面を連れて帰ってもらわねばならない。
圭太は決意する。
しかし相手は正論の通じない先生だ。
頭の中で何度か相手を説得するシミュレーションをしてみたが実際にはとても想定どおりに進むとは思えなかった。
やがて考えにも倦んで目を瞑る。
間もなく彼も眠りに落ちた。
照明の消えた暗い部屋の内は静まり返っている。先ほどまでの騒ぎなどまるで無かったかのように、聞こえてくる音といえば圭太の寝息と時折表を通る車の音だけである。やがてその暗闇の中から、音も無くゆっくりと動き出すものがある。美々面であった。少女は部屋の隅にあるベットの傍まで来ると立ち止まる。ベットの上には寒そうに自分の体を抱いて眠る圭太の姿があった。見下ろす美々面は無表情だった先ほどまでとはまるで別人のような、優しげな微笑を浮かべている。少年の寝顔をじっと見つめていた彼女はやがてゆっくりと手を伸ばす。か細い指が少年の前髪を掬い集め、そしてゆっくりと撫で付けていく。やがて額の端に達すると少女の掌は翻って今度は指の裏側で少年の頬を優しく撫でた。そのとき少年が眉を顰めてううんと唸った。少女はとっさに手を引く。少年は寝返りをうって再び寝息を立て始めた。少女はくすりと笑うとベットの上に静かに腰を下ろし、いつまでも少年の寝顔を見つめ続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます