それでも魔女は毒を飲む
緑月文人
第1話
「未練や無念がない、と言えば嘘になるよ。それでも」
それでも魔女は毒を飲む。
飲み下した毒は、胃の腑に収まった後に全身にゆっくり浸透しはじめる。
呆然と見ていた男は慌てて吐き出させようとするがもう遅い。
ゆっくりと頽れた魔女の身体を抱き上げる。
重い武器や防具を取り扱うことに慣れた両腕の中に、悲しいほど軽くほっそりとした体が収まった。
抱えられたことにきょとんとした魔女が
「まるで姫君にでもなったような気分だよ」
などと言って笑う。
男は『そんなことを言っている場合か』と怒鳴りつける余裕もない。
ただその顔を見つめながら、どうすべきか思考を巡らせる。
狼狽と焦燥でぐるぐると空回りする思考は、魔女と初めて出会った記憶を掘り起こす――
「やあ、君が依頼人か。魔法薬は用意できてる。どうぞ中へ」
魔女の第一声はまさに鈴をころりと転がすような響き。
澄み切ってきて良く響くが、耳に突き刺さりそうなほどの甲高さはない。
声音に反して、その物言いは少年めいていた。
漆を塗りこめたような見事な黒髪を、結わずにまっすぐに垂らしている。容姿そのものは、華やかではないがたおやかな美女だ。
にもかかわらずその少年めいた口調が、意外なほどなじんでいるように感じられる理由は何となくわかる。
黒い外套の下は、飾り気のない男物の衣服をまとっていること。
そしてもう一つは、白い卵型の顔の中でよく目立つアーモンド形の両眼が悪戯好きの少年のような光をたたえてたからだ。
髪と同じくつややかに黒いまつ毛に囲まれたその目は、青みを帯びた深紫。
紅い夕焼けと蒼い薄闇が混ざり合った、夕暮れ時の空の色だ。
森の中にたたずむ小屋の中もまた、派手な装飾はないがこぎれいに整えられている。
「その前に、お茶をどうぞ。まずは一口飲んでみてくれ」
魔女に勧められるまま、男は飾り気のない白い器の中のお茶を一口飲む。
鼻をかすめる清涼でほのかな芳香と同じく、優しい味が口内に広がる。
おいしいと素直に告げると、魔女は安堵したように頬を緩めた。
「これが用意していた薬だ。とりあえず、何日か使ってみて合わないと感じた時は言ってくれ。眠れないのは、辛いからね」
魔女から薬を手渡されるとともに、そう言われて男は頷く。
男は以前は騎士であり、かつて『英雄』とたたえられたほどの武功を上げたこともあった。
だがそんな輝かしい名声では、戦争で受けた心の傷は消えない。
傷はじくじくと痛んで黒ずみ、悪夢を見せるほど精神をむしばんでいた。
満足に眠ることはできず悩んでいたところ、『体調のみならず精神の不調にも効く薬を作ってくれる』という魔女の噂を聞いて訪ねてみたのだ。
「それとこれ」
そう言って魔女から手渡されたのは、雫型の紫水晶を用いて作られた質素なペンダントだ。
「……これは?」
尋ねると魔女は
「悪夢を遠ざけるためのお守り……みたいなものだよ。とりあえず持っていてくれ。君みたいにきれいな金髪と碧眼の持ち主なら、もっと爽やかな色合いの石を身につけた方が似合うんだろうが……」
そう言われて首をひねる。
女性ならともかく、男の自分は容姿をきれいだと言われてもあまり誇らしく思えない。
年齢も世間から見ればまだ若いのだろうが、精神的には随分老け込んでいると自分でも思う。爽やかな色合いが似合うといわれてもぴんとこない。
そう言うと魔女はくすくすと笑う。
「おいおい。何を言ってるんだ。稲穂色の髪と空色の瞳なんてきれいじゃないか。私みたいに、陰気な黒髪と毒々しい紫の瞳じゃ気味が悪いだろう?」
冗談めかしてとはいえ、女性が自分の容姿をけなすような発言をしたことに男は驚いた。
彼女は自分の容姿があまり好きではないのだと、男が気づいたのはずっと後になってからだが。美醜を問わず、他と違う珍しい外見というのはそれだけで悪意の対象となる。劣っていれば嘲られ、秀でていれば妬まれる。
男がしばらく無言で考えた後に
「自分の美醜は分からないし興味もないが、その濡れたような黒髪と菫色の目はとてもきれいだと思う」
と率直に感想を述べた。
とたん、魔女は凍り付いたように動かなくなる。
失礼なことを言ってしまっただろうか、と男が慌てていると
「……物好きな男だな君は」
魔女がぽつりとつぶやく。
よく見ると、その頬はほのかに赤らんでいる。
怒っているのかと思ったがどうも違うようだ。
形のいい細い眉の根は困ったように寄せられているが、口元は柔らかくほころんでいる。
その後、魔女に森を出るまで送ってもらい別れ際に
「これを持っていくといい。夜道でもよく見えるよ」
と灯りを渡された。
と言ってもランプではない。売れた果実のような明るい橙色の炎が宙に浮いているのだ。
これも魔法なのだろうかと、ぼんやり眺めていると炎は意志あるものの如くたゆたいながら、男の周囲をほのかに温めてくれた。
淡いぬくもりを感じながら家までたどり着くと、その夜は久しぶりに悪夢にうなされることなく眠ることができた。
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