Report92: 燃ゆるヤワラート
私に何かあったらリュークを頼れ、という意味深なメガミの言葉。きっと今後、何かが起きる事を予見していたのだろう。
その日は朝から何かがおかしかった。町の人間が少ないというか、どこか余所余所しいというか。
在るのはいつものヤワラートで、見慣れた風景なのにどこかが違う。そんな気がしていた。
カオサン通りから事務所に向かう道中。中華街で黒煙が上がるのが見えた。火事だろう。その場所に近づくにつれ、真っ昼間の町内が喧騒に包まれているのが分かった。不安な様子の人々。会社員も学生も、立ち止まって怪訝な顔をしていた。俺は彼らの視線の先へと進んでいく。
そして次第に足早になり、呼吸が乱れた。
焦慮と恐怖が、俺の中を支配していった。
駆けつけた俺が見たのは、窓から業炎を吐き出すテナントだった。
リセッターズ事務所の入ったビルの二階、そこが烈火に包まれていた。
「な、何やってんだ、入れないよ!」
中に入ろうとした折、消防員に制止される。言葉が出て来ない。肺が苦しい。酷く焦げた匂いがして、ここに居てはいけないと思った。だが、助けなければ、と体が勝手に動いた。一階部分の階段からも火の手が上がっていた。
時刻は八時五十分。この時間ならば……既に出勤している筈だ。
慌てて携帯電話を取り出して、震える手でダイヤルを押した。
「も、もしもし! 俺です! 一体何が……!」
何回かコール音が鳴った後、留守電に切り替わった。叫びたくなる衝動を抑え、画面を閉じる。
消防車は近隣に到着していたが、準備をしている最中だった。狭い中華街で、車両を着ける事に手間取っていると思われる。
先行している消防員に尋ねて、何があったのかを聞いた。しかし、現状は把握出来ていないようだった。
「中に人は!?」
「わ、分かりません。通報があった時は、誰かがまだ居たようだけど……」
「クソッ!!」
何でこんなに不幸が続くんだ。
メガミは……ゾフィは、カメコウは、リュークは逃げたのか?
そうであってくれと願う。それに、そんな簡単に死ぬような輩じゃない。
……じゃあ、何故電話に出ないんだ?
「お、おい、駄目だって! 危ないから!」
「やめてくれッ! 中に居るかもしれないんだ! 放せッ!!」
俺は何もかも分からなくなっていた。突入しようとして、羽交い絞めにされる。騒ぎを聞きつけた別の消防隊員にも取り押さえられ、強引に捻じ伏せられた。地面に腹這いになり、拘束される。
涙に滲んだ視界の端で、紫色の車両が停止するのが見えた。タイ警察車両である。
見れば、中から見知った顔の人間が出てきて、業火に飲まれんとしている建物を見上げた。
「あっちゃ~、これは凄いな! 派手にやられたものだな!」
公安のタックラーである。スワンナプーム空港の事件と、メガミのファンクラブが起こしたカメコウ誘拐事件の時、何度か話した人物だ。恰幅の良い体にチョビヒゲの中年男性である。
「タ、タックラーさん!」
「ん、おや……え~っと、そう! ラッシュ君だったね!」
何を悠長な……。歴とした火災じゃないか。人間の生死も不明だ。
見て分からないのか。現状どれだけの事態になっているのか。
「まだもしかしたら中に……!」
「う~ん、だけど、危ないからね」
「……え?」
タックラーは俺と火災現場を交互に見て、そう言い放った。
冗談で言っている様子はない。だが、口から出た言葉の中には、無関心さが感じられた。
心中では他人事のように思っている。さしずめ、傭兵の連中が死んでくれて都合が良いとさえ思っている。
今一度タックラーの目を見るが、彼は表情をぴくりとも動かさなかった。
「我々は介入出来ない。消防の仕事だ。何とかしてあげたいがな」
タックラーは髭を手で弄ると、淡々と述べてみせた。
この男は自分の管轄じゃなければ、傍観するのか。目の前で人が死んでいくかもしれないのに。
警察とは、何だ。人々の安全を守る組織ではないのか。
俺達は……守る対象ではないのか。
ふざけるな。都合の悪い人間が死ぬなら、見殺しかよ。
「タックラーさん、前から言いたかった事がある。あんた、最低の屑だな!」
タックラーが冷ややかに笑った。こちらを見下し、愉悦に浸っているようである。俺の中で焦燥と悲愴の他に、殺意が芽生えていく。
直に消防隊による放水が始まった。雨が降り出したかと思う程、体がずぶ濡れになっていく。
突っ伏しながら、俺は唇をかみ締める。拳を握り締め、吐き気のするような感覚を堪えていた。
やがて消火活動が終わり、俺は解放される。「邪魔をしないように」と釘を刺された。
鎮火した建物を遠くから眺める事しか出来ない。無力感を味わう。何度も電話を掛けるのだが、リセッターズの誰にも通じなかった。俺は仕方なく、一旦ホテルへと引き返す。
この日、夕方の報道番組で現場が流れていた。
中から身元不明の焼死体が見つかったそうだ。
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