追記、日常

After Story: クロントイの内情1

 タイで生活を続けて分かった事がある。それは、日本から見たタイと実際のタイとの間には、認識に差異があるという事だ。

 日本に居た時、タイは物価が安く、生活しやすいイメージがあった。だが、現実は少し違ったのだ。

 タイは地域によって、職業によって、収入格差が大きい。俺は月に数万バーツ(日本円に換算して十万円前後)をメガミから受け取っているが、これはタイの平均月収で言うと少し低い方だ。


 バンコク周辺は物価が高く、貧困層と比較すれば異常なほどに高騰している。

 日本に置き換えれば、俺のこのフリーター程度の月収はタイの中流階級と言えるのだが、年収五百万円以上の人間達の生活水準が、そこにはある気がした。

 結果、俺のような“フリーター”クラスは、バンコクでは若干だが暮らしに余裕が無いのだ。若干だが……。


 何故そんな事を考えていたのかと言うと、目下、俺とゾフィはタイの貧民街に来ていたからだ。

 メガミより仕事を託された。内容はスリ常習犯の捜索、及び盗まれた物品の回収であった。依頼主は昼間、パッポン通りで窃盗に遭い、財布を盗まれたようだった。


 パッポン通りというのはタイの歓楽街だ。《リセッターズ》の事務所があるヤワラートの少し南である。人の密度も高い。

 依頼主は、盗まれて暫くしてから気付いたようなのだが、同様の事件が数件、付近で相次いでいた。タイ警察にも届け出を出しているそうだが、早期解決を願ってか《リセッターズ》にも依頼が来た、というわけだ。


 依頼を受けて俺とゾフィがパッポンで見張っていると、手馴れた様子でスリを行う奴が居た。犯人は少年であった。歳はまだ小学生くらいだろうか。その場で確保する事もできたのだが、気になった俺達は尾行してみる事にしたのだ。

 ……そして、今に至る。以前、サーマートを追って来訪したスラム街、クロントイ。今は昼過ぎで、天気はよく晴れていた。気温もかなり高いだろう。

 それ故か、そこで暮らす人達はあまり外に出ておらず、時折見かける人間も日陰からこちらを眺める程度であった。

 前回来た時もそうだったが、住人達の視線が俺は気になった。俺達を警戒しているのだろう。


「視線が気になるか? ラッシュ、笑顔だ。敵意がない事を彼らに教えてやればいい」

「成程ね、そういう事か」


 万国共通だぜ、と付け加えてゾフィがアドバイスしてきた。試しに俺がニコリと微笑んでみると、住民は笑顔で返してくれた。想像していたより、フレンドリーな人達のようだ。


 スラム街と聞くと、危険なイメージが付き纏うものだ。

 人々は飢え、犯罪が横行し、不衛生な事で病気が蔓延し、半ば無秩序と化している。そんな事を想像してしまう。だが実情は少々異なる。

 確かに、場所によってはそれらが通例となっている所もあるだろう。だが、メディアやサブカルチャーで脚色されている程、鬱屈とした場所ではないのかもしれない、という事だ。

 以前来訪した時は、現地の人間との交流なんて皆無だった。だから分からなかったが、こちらが心を開けば、歩み寄る事は可能なのだと思った。


「そのスラム街か危険かどうか……、見分け方があるんだ」


 違法に建てられた住居が乱立して、通路は手狭になっている。そこを歩きながら、ゾフィは続けた。


「猫だ」

「……猫?」


 ゾフィは膝立ちになると、足元に擦り寄ってきた猫を軽く撫でた。人懐っこい奴で、ゾフィが触ると一鳴きした。

 辺りを見回すと野良猫が多く棲み付いているようだった。


「猫が居るって事は、動物に危害を加える連中が居ないって事だ。つまり、乱暴するヤツが居ねぇって事なのさ」


 確かに、動物は暴力を振るわれれば懐かない。言われてみれば納得の一言だった。

 曰く、スラム街に棲まう動物は現地のバロメーターなのだ、とか。彼らは時に、口で会話する以上の事柄を語るのだ。

 それに、餌になるものがある、もしくは餌を貰える人間が居るという事は、動物に残飯を与える程度の生活が出来ているという、一種の指標になるのだろう。人間に慣れているのならば、尚更だ。


 そうして猫を可愛がっていると、スラム街の住人が何人か集まってきた。

 先程のまでの冷たい視線は既に感じなくなっている。店があったので、ついでに食い物を買う。そうして、少年を探してる事を告げると、住人達は色々と教えてくれた。

 これが現地の人間との打ち解け方ってヤツだぜ、とゾフィは力説していた。


 スラム街というイメージは、スラム街に住んでいない人間が付けたイメージだ。

 あの場所に暮らしている彼らは、余所者を警戒する。彼らの生活を脅かすやもしれない人間を、彼らが嬉々として受け入れる事はない。興味本位で足を踏み入れた観光客を持て成してくれやしないのだ。

 当然、訪れた人間のスラム街に対するイメージは、その内情と剥離を起こす。

 だが、交流の仕方、上手いやり方がある。それを知らない人間は多い、という事をゾフィは教えてくれた。

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