少年期12
「お前は知らないだろうが、この国はいま、景気が悪化しつつある。景気が何かわかるかね?」
「意味なら知っているよ。経済の状態が悪くて、物が売れなかったり、商売に支障が出ることだろ」
「そこまで把握しておるなら答えは単純だ。我が調べたところによると、イェドノタ連邦は世界大戦以降、約二〇〇年にわたり平和と繁栄を享受したが、その結果社会の前進は滞り、景気が悪化しはじめた予兆は随所に出ておる。亜人族の差別がはじまったのも、そうした停滞から目を逸らすべく、魔人族がヒト族との間に共通の敵を作り上げたのが原因だと見なせなくもない」
そう、亜人族差別という新しい情報は、このときにはすでに得た知識と結びつき、アドルフのなかで確固たる位置づけを見いだすに到っていた。
しかし話はまだ終わりではない。より重要かつ見逃せない意見を、声をひそめた彼は前髪を払いのけながらゆったりと口にした。
「こちらも新聞などを通じて得た情報だが、我々が住むイェドノタ連邦は現在、
フリーデは関知していないだろうが、アドルフはしばしば市場へお使いに行っていたため、市場の物価が少しずつ値上がりし、同時に帰還する冒険者の数が増えていることに気づいていた。後者は南方大陸にある〈開拓〉の現場から離脱した者たち。ようは〈開拓〉にまわる資金が減り、人が余ったのでクビになったのだ。
失業に物価高。近代的な経済学に照らせば、これらは不況の兆しだ。
アドルフとナチス党は、不況で苦しむドイツ経済を立て直した実績があるだけに、こうした経済状況をもたらした原因をある程度予測することができたが、今回の目的は亜人族差別をどう改善させられるかであり、そこにまずは優先順位を置き、アドルフはフリーデに説明を続ける。
「どちらにせよ、売上を減らした商店主たちは、市場への出店料が高止まりしていることに不満を持ちはじめておる。だとすれば、その出店料が値上がりするという偽情報を撒けば、やつらの不満に火をつけ、燃えあがった炎はある人物にむかう。それがだれか、わかるかね?」
慎重さのなかにも悪戯心を忍ばせたアドルフの口ぶりに、フリーデは正解を即答した。
「市場の所有者は、確かトルナバの町長だったよな。ヤーヒムの父親だ」
「そのとおり。子供を叩くまえに、まずは親から叩く。しかも今回の偽情報が巧妙なのは、出店料の値上げがあながち的外れではなく、全体の売上が下がれば出店料で得られる収入も減り、いずれヤーヒムの父親はそれを引き上げた公算が大きいことだ。つまり完全な嘘とも言いがたいがゆえに、ノインたちの流す噂は人々に真実だと認識されるだろう。そこまで行けば、ゴールまであと一歩だ」
「なるほど。そうなるとアドルフ、肝心のゴールはどこに設定するつもりなんだ?」
「簡単な話だ。出店料の値下げに持ち込み、商店主たちの支持を得て、トルナバのヒト族から感謝されるような状況を作り出す。ヤーヒムと戦わず、その父親と交渉し、トルナバの町民全体の利益を確保してやるのだ。亜人族だけが得することをねだってもヒト族は言うことをきかない。だれもが得をする結末に持ち込んでこそ、政治はその真価を発揮したと言える」
あたかも自分が政治家になったかのような物言いに、フリーデは違和感を抱いたかもしれない。しかし彼女はアドルフの〈計画〉が示す先行きに感心しきりだったため、強く興味を引かれたのも、トルナバが攻略される過程についての疑問であった。
「ちょっと待ってほしい。全員が得をするといっても、これまでの話だとヤーヒムの父親だけは損をすることにならないか? 出店料が下がれば、彼は利益を減らす。到底受け入れられないように感じるのだが」
「いいところを突いておる」
賢い意見はアドルフを喜ばせるため、彼は思わず腕組みをした。とはいえその弾みで口が弛むことはなく、おもいのほか用心深い言葉が歯切れよく並べられる。
「むろん、町長の攻略法は考えてあるが、それを話すのはもう少し先のことだ。ものには順序がある」
「ケチくさいこと言うな。けれどそれ以外の点は、確かに驚くばかりだ。大人たちから攻略することで亜人族差別を変える。今回のアイデアを君はいつ思いついたんだ?」
「思いついたのは、お前と約束をした日の夜だが、ベースになるアイデアは元々あった。もし自分がこの国の政治家なら、どんな政策を打ち出し、国を発展させるだろう。そんなことを思いながら、書物を読み、新聞に目を通してきた。ようは普段の積み重ねだな」
「地道な努力の結果なのか。魔法と同じだな」
心を動かされた様子のフリーデは、あごに手をやってしかめ面をする。どんな表情をしても、すぐ怖い顔だちに見えてしまう彼女だが、細かい違いをアドルフは段々理解できるようになってきた。
もっともこの日、ふたりにできることはもう何もなかった。
ノインとその従者が情報の拡散に動き、成果が出るには時間が要る。それまでは静観する他ない。
「とりあえず三日だな」
アドルフがぽつりと言ったが、そこには根拠があった。
情報をバラ撒くのに一日、その情報が隅々にまで拡散するのにもう一日、最後の日は市場が休みだから合計三日間。
「首謀者を特定されたくはない。よってノインたちと接点を持たず、我々も表では極力、無関心を貫く。三日は何食わぬ顔で過ごしてくれ」
慎重に語りかけるアドルフだが、図書室でこそ秘密裏に落ち合えるものの、それ以外の場所ではだれの目が光っているかわからない。
「わかった。では三日後、またこの図書室に集まろう」
フリーデの返事に、アドルフは頷き返し、「そのときはノインも一緒にな」と言った。
互いの立ち位置を確認し合い、注意事項を伝え、この密会は解散となる。
なお図書室から戻るときも、ふたり同時に退室することは避け、少し時間を置いてから地上にむかうことにした。
順番はアドルフのほうが先に出ることになった。きょうは三時のおやつが振る舞われる日だったため、そのままの足で食堂にむかうことになる。
「食堂では少しだけ我に話しかけろ。それ以外は好きなように動いてよい」
必要以上に親しくすると周囲に勘ぐられるが、まったく疎遠でいるのも違和感が出る。細かい配慮を利かせたアドルフは、フリーデを完全に遠ざけないつもりで言った。
「了解だ。僕は一〇分ほど時間をおいてむかうよ」
要領の良いフリーデは落ち着いた低い声で応え、軽く手を振った。
情報工作の成果が出るまで三日間。それまでしばらくは、購入した宝くじに気をもむようなじれったい気分をあじわうのだろう。
そういう落ち着かない心境を嫌うアドルフは、これから三日間、どうやって精神をべつのことに集中させるか悩みつつ、杖を片手に地上へ続く梯子を器用に昇って行くのだった。
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