少年期3
――何事だ?
思わず音のした方向をまじまじ見あげてしまったアドルフだが、それは図書室の天井、すなわち地上の床を全速力で駆ける音に聞こえた。彼がそう判じた瞬間、図書室の入口にある梯子をだれかが降りてくる。よほど急いでいるのか、靴音がけたたましかった。
このときアドルフは、自分が梯子のある方向から見て死角であることに気づいた。
おかげで彼は、腰を静かに降ろして使い込んだ机の下にその姿をゆっくり沈めることができた。まるで鬼ごっこで遊ぶ子供のようだが、ひんやり冷たい床板に膝を突き、アドルフはふと考える。
――咄嗟に隠れてしまったが、飛び込んできたやつはだれだ?
読書を邪魔されたわけではないから、突然の闖入者に悪い感情はない。それより彼が抱いたのは純粋な好奇心だった。
というのも、梯子を伝い、図書室になだれ込んだ者は、アドルフの反対側ですすり上げるような泣き声を発していたからだ。
それは号泣と呼ぶほど大げさでなく、悲しいというより悔しげな声だった。肩を小刻みに震わせ、胸に手を置き、はち切れんばかりの思いを悔し涙とともに押し出すような泣き声。しかもそれは声の高さから判ずるに、アドルフと年齢の近い少女のものに聞こえた。
この時点でアドルフは、いくつかの行動を選ぶ自由があった。けれど机の下から垣間見えた少女の髪、とりわけ短く切り揃えた銀髪を目にした途端、彼は手探り状態だが声を発した。
「おい、そこの女、なぜ泣いておる?」
薄暗い場所へむけ、静かに言い放ったアドルフは、体を杖に預けその場に直立する。
突然物陰から現れたことで、彼は相手に真夏の夜の幽霊を連想させたかもしれない。実際、アドルフの視線の先にうずくまった少女は、両目を見開いて驚きつつ、か細い声で言い返してきた。
「……君こそ誰なんだ?」
しゃくりあげる返事は意外と明瞭な声で、〈施設〉の子供たちに思いあたる響きがあった。アドルフは一度見聞きしたものを忘れないから、抜群の記憶力を発揮し、短い返事をよこした声の主をほぼ特定することができた。
――確かこの声は、フリーデとかいう女のものだな。
彼の出した答えが正しかった証拠に、間接照明の薄い光はフリーデの特徴である美しい銀髪を照らだし、角度を変えれば安っぽいワンピースに身を包んだ少女の涙に濡れた頬も見える。裏を返せば、彼女のほうからは逆光となってアドルフの姿は見えないだろう。やむをえず彼は、照明器具の前に進み出て高らかな声をあげた。
「案ずるな、フリーデよ。我はアドルフ。昼間からここで本を読んでおったが、そこへお前が入ってきた。反射的に隠れてしまったが、お前が驚いているように我も驚いたのだ。脅かすつもりはなかった」
総統時代の彼からすればたいへん謙虚な話ぶりだが、当時からアドルフはいつも〈王〉のような態度をとっていたわけでなく、冗談も言うし、相手と同じ目線で話すことを厭わなかった。〈施設〉に入所して以来、遊び相手もつくらなかったが、その気になれば容易く打ち解けることもできたはずだ。
しかしここでアドルフを戸惑わせるようなことが起きた。彼が名乗りをあげたことでフリーデは一瞬悲しみを忘れ、羞恥心を抱き、冷静な感情を取り戻すと思われた。けれど実際の彼女は、再び悔しそうな声を洩らし、切なげに泣き出してしまうのだった。
本当はだれもいない図書室に駆け込み、孤独に泣こうとしたのかもしれない。子供ですらそうした恥じらいの念をもつとアドルフは思ったが、目の前のフリーデは意に反し、アドルフの登場によって我に返るどころか、溢れる涙を止められない。
人間は往々にして、相手の悲しみに気づいても深く知ろうとはしない。なぜならそれを知ってしまうと、その感情を一緒に分かち合い、解決に導く義務が生じるような気にさせられるからだ。
身も蓋もなくいえば、面倒なことに巻き込まれたくない。それは人間の性であるが、ここにいるアドルフは普通の人間とはだいぶ人格が異なっており、その証拠に彼は、フリーデの涙の理由を知り、その奥にある悔しげな感情に触れたいと考え、こんな言葉を吐いた。
「お前はなぜ泣いておる? むろん、答える義理はない。だがお前の悲しみを我は知ってしまった。何か手助けできることがあるかもしれない。こうして鉢合わせしたのも何かの縁だ、我はお前が想像するより遥かに強い力をもっておる」
いったいなぜ、救いの手を差し伸べるようなことを言ったのか。むろんそこには明確な理由があった。
実のところアドルフは〈施設〉で暮らす男女やトルナバに住む連中の特性をあらかた掌握していた。特に子供らの動向にかんしては、得意の眼力で観察するばかりか、力の弱い者にあえて近づき、三時のおやつを譲ることを条件に密かに情報を入手していた。
それらは長い一枚のリストとして彼の頭脳に保存されているが、そのリストにはフリーデの情報だけがないのである。
アドルフと同じでフリーデは群れることをせず、目立つこともしないため、彼女が何者であるかを〈施設〉のだれもが知らなかったのだ。
――フリーデという例外を作るのは気に食わん。この機会に人となりを丸裸にしてやる。
そう、アドルフは決して同情を抱いたからフリーデに気持ちを寄せたのではなかった。彼はつねに自己中心的で、自分の利益になることしかやらない。その行動原理はまぎれもなく独裁者のものであるが、表面的に示される言動は相手を思いやるかのごとき慈愛に満ちていた。
「さあフリーデよ、話してくれ。お前の嘆きの意味を」
床板に杖を突きながら、アドルフは一歩ずつフリーデへと近づいていき、姿勢を屈めて右手を前へと差し出した。
やがてフリーデはそこに自分の手を重ね、逸らしていた視線をアドルフの瞳にむけて言った。
「……だれにもいわないと約束するか?」
「当然。お前と我だけの秘密だ」
駄目押しのように言い放ち、アドルフは相手と共犯関係を作った。こうなるとフリーデがよほどの天の邪鬼でなければ、差し出された手を振り払うような真似はしない。
「君のことは少しだけ知っていたよ、アドルフ。狼狽えるわけでも、憐れむわけでもなく、何か拍子抜けした。つらい気持ちがちょっとだけ楽になったよ」
表情は泣き顔のままだが、フリーデはようやく声を落ち着かせ、心をわずかに開いてみせた。
少なくともアドルフはそのように理解し、フリーデが発する次の声に、夏風を待つサボテンのような気持ちで耳を澄ました。
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