16. 海辺の告白(下)
夜の海は、ぽっかりと空いた真っ黒な穴みたいに見える。その波の動きを眺めながら、私は、ユウヒの頼みごとを頭の中で繰り返す。
秘密。秘密?
私が大きな音を苦手な理由?
そんなつまらない話聞いて、一体、なんになるっていうの?
「……楽しい話じゃないよ」
「親に頭割られるのと、どっちが楽しくない?」
「……どっちも、楽しくない」
波の音がする。潮風の中をかき分けて。
「……学校で、誰にも話したことがないの」
「メイリにも?」
「うん。……だから、偶然会ったあなたに、話していいのかわからなくって」
「僕だってそれは、同じさ。でも、遅かれ早かれ、僕は君に声をかけてたと思うけど」
「え?」
「だから僕らの偶然は、君と僕がたぐり寄せた偶然なんだ。僕はずっと、君を探してた」
探してた? ずっと?
私を? ユウヒが?
「ど、どういう意味……?」
「君と親しくなりたい。君を知りたい。今の僕には、これ以上の言い方が浮かばない」
頭は混乱する。甘い音色と現実味のある気配が混ざり合う。誰も愛せない機械頭。昔の名残で、友情を感じる機械頭。
ユウヒはこっちを見てる。波音の中で、私を待ってる。
「……君も、そう思ってたら嬉しい」
気づいた時には遅かった。
ユウヒに、知ってもらいたい。私のことを知ってもらいたい。
お互いの秘密を分け合って、2人だけになってみたい。誰も知らない傷口を。ただ知っている、2人になりたい。
メイリでもビアンカでもない、クララでもクリストファーでもない。他の誰でもない、ユウヒと。
「君が嫌じゃなくて、話すのが怖いんだったら、どうぞ」
ヘルメットの上で、ユウヒが手のひらを開いた。細長い指が、潮風を浴びている。ほんの少しだけ指が揺れたから、私は、そこに自分の手を重ねた。握ってみると、ユウヒの方が弱々しく、握り返して来る。
「手、痛いの?」
「いや、違うよ。勇気がないだけさ」
ユウヒは海を見ている。だけど私は、繋いだ手を見つめていた。そこに誰かがいる証拠。1人じゃない。手のひらがあったかい。
あの人の声がする。大丈夫、大丈夫。
深呼吸して。1人になんかしない。
「8年前、19地区の学校で、立てこもり事件があったの知ってる? 私はその時の人質」
ユウヒの手が、ピクリと動いた。けれど、顔はこっちを向かないままだ。
「クラスで1人だけ、私は犯人の男に手首を縛られて、ベランダの柵に座らされてた。足を外に出して、グラウンドからよく見えるように。押されたら、すぐに落ちるように」
頬に当たる風が、潮風なのかあの日の風なのか、わからなくなる。だから必死に波の音を聞いた。ここは海で、私が手を繋いでいるのはユウヒで、今は夜。
「すぐに警察が来て、犯人の説得をして、私のことも励ましてくれたの。その時ね、いっぱい応援してくれた若い男の人がいたんだ。“大丈夫だ、深呼吸して”って。“みんなも俺も、君の姿に励まされてる”って」
もう一度、手を握る。ユウヒも握り返して来た。私たちの手は、ほんの少しだけ震えてる。
「……ずっと、あの人がいたから頑張れたの。怖かったし、教室で泣いてる子も、吐いてる子もいたし、犯人は壊れたラジオみたいに騒いでるし、ずっと怖かったけど。頑張ったの。頑張れば、みんなで、またいつもみたいに遊べるって。そしたらみんなであの人に、ありがとうって言いに行こうって」
もう、あの人の顔は覚えてない。でも、声だけは忘れないように、何度も何度も思い出してた。誰かに、“人は、声から忘れちゃうんだよ”と教わったから。そうならないように、ずっと繰り返してた。
『大丈夫だ、深呼吸して! 君が頑張ってる姿は、きっと教室のみんなも見てるはずだ。俺もここから見てる。みんなも俺も、君の姿に励まされてるんだ。君を1人になんてしないさ! だから、諦めないって約束しような!』
あの人の、大きくて優しい声。力強くて、穏やかな声。それは、ディアナが私の話を聞いてくれるのと同じだ。あの人も仕事だから、そうやって、私と、犯人に話しかけてた。そんなのは分かってる。
でも、あの声がなかったら、私は。
それなのに。
「だけど、犯人が、あの人を呼び出して……。あの人が、建物に入ったら」
「……うん」
「爆発音がして、あの人が、死んじゃったの」
足元であの音がしたのは、たった一度だけ。たった、一度だけだ。
だけど、たった一度のあの音で、希望は壊れてしまった。
波の音がする。
私たちをからかうように、慰めるように、馬鹿にするように、慈しむように。海には私の声が聞こえない。あの人にも、私の言葉は届かない。
「……私のせい」
ありがとうも、ごめんなさいも、言えなかった。ただ私は縛られて、ベランダにいただけだ。あの人に、なにも出来なかった。助けてくれたのに、なにも出来なかった。
「あれからずっと、大きい音に驚いて吐いたり、男の人の前でいきなり泣いたり、そんなことばっかりだったんだけど……。少しずつ、大丈夫になって来て。今でも、だいぶまともになったんだよ。
でも、それはなんだか、あの人のことを忘れていくみたいで、裏切るみたいで……。あの人が命をかけてくれるほどの価値なんて、私にはないのに……。時々、嫌になる」
ユウヒは、“君のせいじゃないよ”とは言わなかった。でも、“君のせいだ”とも言わなかった。ただ、じっと海を見たまま、私の手を離さなかった。
「……ごめんね。つまんない話で」
繋いだ手が震えてる。潮風のせいでもなく、慟哭のせいでもない。
震えているのは、ユウヒだった。
長い指が、私の手の甲を包み込む。それは私をなぞりもしないし、哀れむこともなかった。
「君が苦しみを克服するのと、“その人”のことを忘れずにいることは、きっと両立できるよ」
潮風に乗って、機械で出来たユウヒの頭から声がする。
「だってその人は、なんのために、君と一緒に戦ったんだい? 君に、永遠に続く苦しみを与えたかった? そんなわけないよな、特殊部隊だもの」
波の音がする。
どこまでもどこまでも追いかけてくるのに、ちっとも姿が見えない、真っ暗闇。そこにいるのはわかるのに、ちっとも消えない、永遠の闇。
「そうか、よくわかったよ。君に幸せになってほしかったから、その人は君と一緒に戦ったんだ。だから今もきっと、それは変わらない。その人は絶対諦めない。苦しい時も幸せな時も、いつも、今も君と一緒にいる。君が覚えてる限り、君を、1人になんてしないよ」
来たばかりの夜は明けない。朝はしばらくやって来ない。水平線の先は黙り込んで、朝のことなんて考える素振りすら見せない。
だけど、その闇の中をちらちらと、船の明かりが通っていく。灯台のランプが光る。月が開いた光の道が、曖昧な形を帯び始める。
ユウヒは、手を握ったままだった。
「聞かせてくれて、ありがとう。話すの、辛かったよね」
「う、ううん。大丈夫」
「君のこの話、聞きたかったんだ」
「え?」
「出来ることなら、君を手放したくないな」
それは、ゆっくり訪れた。
沈黙は、絹糸で織られた柔らかな布地のように、空からゆっくりと降りてくる。私たちを包み込んで、波の音から隠してしまう。
ユウヒの細い指が、私の手をそっと包む。1本1本、そこに指があるのを確かめて。まるで、情を注ぐように、指先に触れて。
そのまま引き上げたかと思えば、彼は、私の手の甲を自分の機械頭に静かに寄せた。
冷たく硬い、機械頭。
まるで口づけをするように、彼の顔が、私の手に触れた。
「野菊、ありがとう」
声がした。
「君は、僕が今まで、ずっと憎んでた人だよ」
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