第8話「旅立ち・前編」

その朝は太陽神の化身たる雄鶏が鳴くよりも、日が昇りきるよりも早く、衝撃と共に訪れた。

起き抜けのアーサーがまず初めに目にしたものは、うっすらとシミのついた見慣れない天井ではなく、乙女の白いかんばせであった。

即座に「これは夢に違いない」と判断し、アーサーは反射的に目を瞑る。

起き抜けにも関わらず脳は覚醒を果たしていたが、彼は現実逃避を決め込んだ。


ややあって再び目を開けたアーサーが目にしたのも、

何故か同じ寝台に入り込み満面の笑みでアーサーを見やる乙女の姿だった。


その時の彼の心境はいかなるものであったか。

轟音に近しい悲鳴と共に跳ね起きるアーサーの傍ら、乙女はひたすらに腹を抱えて笑っていた。


「朝から心臓に悪いことをしないでください……! 」


「ごめんなさいね。

 生きてる人が近くにいるって、

 やっぱりいいなぁって思っちゃって」


短く刈られた頭をガシガシと掻きむしり、アーサーはハァと重いため息をつく。

耳の端が、ほんのわずかに赤く染まっていた。


そんな彼を尻目に、乙女は軽やかな仕草で寝台から立ち上がる。

そのまま踊る様な足取りで扉の前まで進み、取っ手を掴んだその瞬間。

彼女は突然ピタリと足を止め、クルリとアーサーの方へと白い面を向けた。

なにか面白いものでも思い出したように、真珠の眼が爛々と輝いている。


上体を起こしたまま寝起きの頭でぼんやりと、乙女の一連の行動を見送っていたアーサーは、

そんな彼女の様子にただならぬものを感じ取り、緊張した面持ちで乙女のかんばせを見つめた。


その予想は案の定的中した。

乙女は白い面に茶目っ気たっぷりの微笑を浮かべ、

うふふ、と可憐な唇から堪えきれないように笑い声を零しながら──


「そうそう、あなた。見かけは随分大きくなったけど、

 やっぱり寝顔は昔のままね。とっても可愛かったわよ」


そんな焼夷兵器さながらの威力を持つ言葉を口にした。

アーサーが面食らっている間に、そのまま熟練の擲弾兵のように颯爽と乙女は寝室から離脱する。

後に残されたアーサーは、寝台の上で暫し悶絶していた。


「……綺麗さっぱり無くなってるな」


アーサーが朝の祈りと身支度を終えてリビングルームへとやってきたころには、

床を埋め尽くしていた大量の荷物はすべて消え去っていた。

「一体全体どこに消えたのだろう」と頭をひねりながらも、とりあえず腹ごなしにと口に入れた堅パンと干し肉をシードルで流し込む。

そして昨夜の寝際に思い出した”探し物”を取りに、祖父の部屋へと向かった。


肝心の乙女はというと、準備万端な様子で庭にいた。

リネンのシフトドレスとペディコートの上にウールでできた深紅の外とうを羽織り、

髪と同じ色をしたリネンのキャップで覆い隠したどこにでもいる少女のような姿で、

アーサーを今か今かと待ち構えていた。


「遅いわよ、もう」


「すみません、ちょっと忘れ物を取りに戻ってて」


言い訳をしながら、乙女の姿をまじまじと観察する。

荷物らしきものを、彼女は一切手にしていなかった。

荷物だとわかるのは深紅の外とうの中からわずかに見え隠れするオモニエールぐらいで、長い髪を束ねていたピーコックブルーのリボンですらどこにも見当たらない。

どういうことだ?とアーサーは露骨に首を傾げる。


「『荷物はどこに消えたんだ?』って聞きたいのよね?

  知りたい?」


うふふ、と悪戯めいた笑い声が乙女の大理石の唇から零れる。

アーサーの考えは、どうやら彼女には筒抜けであるらしかった。

愚直にはい、と頷いたアーサーに「よくできました」と言わんばかりに微笑んだ。


「正解は、ここです!」


乙女の白魚のごとき指が滑らかに空を舞う。

まるで空気中に落書きをするかのような気軽さで。

そんなお気楽で遊びのような何気ない動作の最中、

アーサーは確かにそれを目にした。

何もなかった筈の空間に一線の切れ目が生じ、空気と空気が切り離される瞬間を。


空中へ走った白線へと乙女はごく自然な動作で手を伸ばし、

そのか細い両手で以って強引に空気と空気の隙間をこじ開けた。


驚きのあまり声も出せず立ち尽くした状態のまま、アーサーは確かにそこにある異次元を見た。

空間と空間の狭間。

異次元領域としか形容する以外にない空間の中に、

山のように積まれた荷物の数々を。


「ここね、なんだかわからないけど、物が沢山入ってとっても便利なのよ!

 食料品とかも、腐らずそのまま保存されてるし。

 あ、勿論ちゃんと取り出せるから安心してね」


「…………………………」


ええ、とも。はい、とも。そうですか、とも答えられず、

アーサーはうつろな微笑を顔面に張り付けたまま、ただコクリと頷く。

脳裏に、祖父が生前残してくれた助言が──教訓が反響していた。


『いいか、アーサー。

 あの方は全能に等しいお力を持ったお方だ。

 故に我らの常識や創造など、あの方には通用しないと思え。

 あの方はありとあらゆる物理法則を、いともたやすく捻じ曲げる』


確かにその通りだね、と記憶の中の祖父へアーサーは同意と共に、

こんな局面に自分以上に遭遇したであろう祖父へ、心の中で深く同情する。


「ありがとう。

 きっとその言葉がなかったら、俺はくじけていたよおじいさん」


記憶の中の在りし日の祖父へ向かって、アーサーは小さく感謝の意を述べた。











※オモニエール…ポシェットの原型です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る