26.六千円でピアスと何かを得た話
何年か前の暑い夏の日だった。普段は近寄らない渋谷の地に降り立って、繁華街を迂回して歩いていた。夜になれば活発になりそうなライブハウスやらバーやらが乱立している通りを抜けると、目当てであるピアススタジオに辿り着いた。
社会人X年目、何となくピアスの穴を増やしたくなったのがきっかけである。既に四つ穴は開いていたが、今回は軟骨に開けたかった。自分では出来ないので、金の力で解決である。因みにピアッサーを買うと開けてくれる病院もあるが、ロブ(耳たぶ)とヘリックス(耳の外側の軟骨)が対象なので、それ以外の部位は開けられない。今回開けようとしているのは、まさにその対象外の部位だった。
ピアスの部位というのは耳だけでもかなりあって、流行もある。この頃はトラガス(耳の穴のすぐ近くにある出っ張り)に開けるのが流行していた。その次はインダストリアル(耳の縁に二箇所穴を開けてバーベルを通す)だった気がする。だがどちらもあまり興味がなかった。トラガスはイヤホンが出来なくなりそうだし、インダストリアルは面倒そうだった。
少し古いビルに入り、階段を使って目的の階まで進む。ビル全体が日陰になっているせいか、外に比べて少し涼しかった。本当に合っているのか不安になる、静寂を湛えた廊下を進んでいくと、目的のピアススタジオの看板が見えた。中は明るく、客はいなかった。ピアスまみれのお姉さんが愛想よく迎え入れる。何だか非常にアンバランスだった。
「ピアス開けたいんですが」
「何処に開けたいとか決まってますか?」
美容院みたいなやり取りだ。なのでこちらも丁寧に答える。
「ルークに開けたいんですが」
耳の穴を起点として上に指を滑らせると、軟骨の起伏が二つあると思う。ルークとはその外側の起伏に開けることを示す。此処に開けている人は当時は少なかった。
「そうですか。……ちょっと失礼しますね」
お姉さんはやはり美容師のように、私の髪を掬って、下に隠れていた耳を見た。ルークをするのに十分なスペースがあることを確認してから、ピアスを開ける時の注意点などが書かれた紙を差し出された。黄色い紙に黒で印刷されたそれに目を通してから、サインをする。
「では、隣の部屋にどうぞ」
そう言ってお姉さんは違う扉を指し示した。扉を開けてみると、今いた明るい部屋とは真逆な暗い部屋に、機材を乗せたワゴンやワイヤーラックが置かれていて、ヘンプカラーなファッションとタトゥーに身を包んだ男性スタッフがにこやかに立っていた。渋谷感満載である。でもちゃんとラテックスの手袋しているあたり、やはりアンバランスだ。まぁ見た目のイメージ通りに、素手で安全ピン持って先端を火で炙ったもので施術されても困るが。
希望する場所を伝えると、いと速やかに耳を消毒されて、鋭いニードルでブスリと穴を開けられた。その時の感想としては、「あれ。痛くない」だった。前にヘリックスに開けた時は痛さがすぐに襲ってきたのだが、今回はそれがなかった。何というか、自分に発泡スチロールがくっついていて、そこに穴を開けられたような感覚である。
ファーストピアスを通されて、もう一度消毒されて終わった。時間にして三十秒といったところで、本当に一瞬だった。これは腕がいいのだろうか。それとも元々この部位は痛みを感じにくいのだろうか。よくわからないので前者ということにした。
料金は六千円。良心的なお値段だった。
帰りは行きに避けていたセンター街の方に行った。ルークにピアスが開いている私には、もはやこのセンター街も敵ではない。堂々としたものである。たかが穴を開けて金属の輪っかを通しただけなのに、ちょっとした自信が付く。某部族の成人の儀式にピアスがあるのも納得だ。ビバ・ピアス。
普段は少し尻込みするような店にも入って、服なんて買ってしまった。一時間前に駅前でおどおどとしていた私はもういないのだ。何しろルークにピアスが開いている。スクランブル交差点を行きかうおしゃれな人類の中にだって数えるほどしかない筈だ。それだけでかなりテンションが上がる。渋谷という土地に認められた感がある。それが完全な妄想だということはわかっているが、どうせ人生半分ぐらいは妄想である。現実など恐るるに足らずだ。
テンションの上がったまま渋谷の土地を後にし、家に帰ったのは数時間後。
ふと我に返ると財布の中が空だった。代わりに服を買った店のレシートと、ピアスショップのレシートと、ハンバーグ店のレシートが仲良く身を寄せ合っていた。出費、二万と少し。ピアススタジオは良心的だったが、私の理性に良心は働かなかったようだ。
ちょっと怖くなったので、それ以降ピアスを開けるのは控えている。
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