『胡蝶の宿⑧』


 俺は早速にランタンへ火を灯し輝陽館を後にした。坂を上り石段を上がって霧雨大明神社へやって来た。

 所々に灯る白熱電球のオレンジの明かり。西の空にまだ月が残っているので左程薄暗くは無い。しかし、夜の神社は静謐で凛とした空気に包まれていた。歩くたび地面に敷かれた玉砂利がシャリシャリと小鈴のような音を奏でる。

 俺は拝殿の前に立ち紐をゆすって鈴を鳴らした。そして、二拝二拍手一拝。それに続いて祝詞を上げる。


「祓い給え、清め給え、かむながら守り給い、さきわえ給え」


 一礼してから拝殿の裏手へ回った。拝殿の裏はすぐに本殿になっていた。低い壁に覆われた本殿の中には大小いくつもの石柱のシルエットが見える……いや、石柱ではない男性のシンボルの形をしている……。これに真面目に手を合わしたことを思うと少し嫌な気分になった。


 本殿の裏手に回り込み木塀に設けられた木戸の前に来た。木戸の中央に四角い穴が開いている。そこへL字の金具を突っ込んで時計回りにクルリと回した。〝カタッ〟と言う音がしてかんぬきが跳ね上がる感覚があった。俺は素早く木戸の中へと入り閂を下ろした。


 長い石段が上へと続いてる。ランタンの明かりで足元を照らしながら石段を上がった。下から見た時には判らなかったが勾配は緩やかで奥の方へと距離がある。どうやら源泉はここの集落から奥まったところにあるようだ。石段の上の山門には電気が灯っている。サイズも大きく結構立派な造りに見える。振り返るとこの集落の明かりが遠くに見えた。俺は少し急ぎ足で石段を駆け上った。


 山門に辿り着くとそこへ寄りかかる様に清掃中の立て札が置いてあった。俺はそれを抱えて石段の上まで運び設置した。山門を手で押し開く。ギギギと軋んだ音を立てながら門は僅かに開いた。そして、俺は声を上げた。


「ごめんなさい、戎者えびすものでございます」


 返事は無い。中にも白熱電灯が灯っている。扉の隙間から湯気があふれ出した。微かに香る硫黄の匂い。俺は力を込めて扉を押し開いた。

 高い白壁に囲まれた空間に、黒い御影石の敷き詰められたニ十畳ほどの洗い場。そして、湯気の立ち昇る六畳ほどの露天風呂。その中央には双子の岩が置いて有り、しめ縄が掛けられている。成る程、これは神域だ……。恐らく床の黒い石畳は常世の国を表したのではなかろうか。ここにはそう思わせる神秘さが漂っている。


 おっと、すぐに扉を閉めるんだった……。俺は急いで山門をくぐり扉を閉めた。ドンと重厚な音を立てて扉が閉まった。

 山門の裏は屋根の付いた脱衣所になっており、そこの棚の横にデッキブラシが吊ってあるのが見えた。ゴミ取り用の手網も置いてある。俺はその棚の前で服を脱ぎ全裸になった。


 先ずは風呂桶を手に持って湯船に向かう。湯船の湯を汲み五度ほどかけ湯した。お湯の温度はややぬるめ。これなら何時間でも浸かっていられる温度である。

 そして、俺はブラシを手に取って端から丁寧に床を擦り始めた。桶にお湯を汲み水をまきながらブラシで擦る。浮いた汚れをお湯で流す。それを繰り返しながら綺麗になるまで床を磨いた。勿論、全裸で……ブラブラさせながら……。全体を洗い終えるのに二十分ほどかかった。


 次に俺は風呂桶にお湯を汲みタオルに石鹸をしみ込ませ、しっかり泡立てて体を洗った。そして、ツバキ油……一体どう使うのだろう? ベビーオイルみたいな物だろうか……。薄く手の平に伸ばし全身に擦り込んでおいた。それから、右手に手網を左手にオレンジネットを持ち湯船に向かった。


 お湯は輝陽館よりやや濃い乳白色。ぬるりとした感触のあるやや重めのお湯だ。

 そして、ゆっくりとお湯に浸かった。お湯の深さは左程ない。丁度、脹脛ふくらはぎが浸かる位。お湯の温度にもむらがある。奥の方がやや暖かいが、それでも全体的に温めのお風呂である。


 先ずは網でゴミを拾う。この白壁の中に植物は生えていない。壁の周囲にも樹々は見えないが、風でどこから飛ばされてくるのだろうか、湯舟にはそれなりの数の落ち葉が浮かんでいる。俺は網で丁寧にそれを一つずつ掬いネットへ入れた。排水溝に溜まっている落ち葉は手で拾いネットに入れた。そして、網とネットを脱衣所に持っていき俺はゆっくり湯船に浸かる事にした。


 深さが左程ないので肩までつかるには横になるしかない。俺は手足を伸ばし湯船に浮かんだ。温泉の湯気が立ち昇っていく。空には星が見える。足元に見える大きな山門の端に月が掛かっている。只、風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。


 ――最高だ……。露天風呂とはこうでなくてはいけない……。


 ここに居られるのはランタンの炎が消えるまでの二時間だ。確かにここに浸かっていると時間を忘れる。時間の制限が無いと朝まで浸かっていそうだ。


 俺は左手を空へと伸ばし、星を掴むふりをした。肌から昇る湯気が夜空へと消えて行く……。


 心地よさに微睡んだ――。




 ギギギッ……。


 その時、不意に山門の扉を開く音が聞こえた。


「ごめんなさい、戎者でございます」


 若い女性の声がこの静かな露天のお風呂に響いた。


 ――え?

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