『胡蝶の宿⑥』
大広間から厨房を覗いてみると料理の準備はできていた。厳めしい表情をしながら厳吾さんが盛り付けをしている。
今日のメニューはビーフカツにホタテのフライ。そして、野菜たっぷりの〝けの汁〟だそうである。
「厳吾さんはね、以前は函館のホテルでシェフをやってたんだよ」瑞樹がこっそり教えてくれた。
「それで何故、今ここで」
「うーん、奥さんと結婚したから? 和子さんはこっちの人なんだよ」
「ふーん、ここは女性比率高いんだな」
「うん、この辺りじゃ男が出稼ぎに行くのが当たり前なんだよ。冬の間雪に埋もれちゃうからね。他の旅館も全部女将が経営してるよ」
「え? もしかしてお前のお父さんもか」
「おとんは今、八戸のホテルで雇われ店長してるよ」
「そうか……」どうして人手不足のここでなく他で働いているのだろう? 謎だ。
「おい、出来たぞ。持ってけ」これが厳吾さんの第一声だった。
俺達はお盆に乗せて大広間の長机へ料理を運んだ。ちなみに女将はまだ仕事中でここには居ない。
「「「「頂きます!」」」」と皆で手を合わせ食べ始めた。
うん、美味い。ビーフカツは一旦スライスしたお肉を重ねてカツにしてある。中にはあまり火を通さずレアでジューシーに仕上げてある。ホタテのフライは外がカリッと中がプリプリしてて甘い。そして、なんと言っても美味しいのがこのけの汁だ。大根・ごぼう・ニンジン・ふき・それ以外にもいろいろな野菜をみじん切りにしてあって味噌で煮込んでいる。普通の味噌汁には無い複雑な味に仕上がっている。
「美味い……」思わず言葉が漏れた。
「その、けの汁はこの辺りの郷土料理なんだよ。家庭や季節によって入れる物が違うからいくら食べても飽きがこないんだよ」
「うん、確かに。これなら毎日食べてもいい……え……」
厳吾さんが破顔している。美味しいと言われたことが嬉しかったのだろうか。逆に物凄く怖い。
俺達は昼食を終える頃になって女将がやって来た。
「女将、何かあったの」瑞樹が質問する。
「瑞樹明日、予約が入ったから
「うん、わかった」
――はて、銀杏の名の部屋ってあったかな……。その部屋の名は俺の記憶には無い。
昼食を終えた俺と瑞樹は南館の清掃に掛かった。
「一階二階の廊下は掃除機を掛けて、手すりと窓は雑巾で拭いておく。それが終わったら布団を布団部屋へ取り込んどいて」
「ん、わかった」
「私は少し離れに行ってくるからよろしくね」
「わかった」どうやら銀杏の部屋は離れの事らしい……。そういえば布団を干すときに南館の向こう側に庵の様な建物が見えていた。多分それの事だろう。
俺は掃除機を取り出し掃除を始めた。一階の掃除が終わり二階の作業をしている時に瑞樹が戻ってきた。
「お、順調だね。ほんと助かるわー」
「もう離れの方は良いのか」
「いいのよ、あそこは。あそこを利用するのは上客だけだから、私はあまり手伝わしてもらえないんだよ」
「どう言う事」
「あそこを使えるのは温泉組合の人だけってこと。若女将になってない私にはまだ資格が無いんだよ。そう言う決まりなの」
「ふーん、そっか」
「じゃ、私布団取り込んでおくね」
「わかった」
俺は早々に廊下の掃除を終え、瑞樹を手伝いに行った。布団を取り込み真新しいシーツを掛ける。それを各部屋へと運び押し入れに入れて置く。
「よーし、これで午後の仕事は終わり」
「もう終わり?」時刻はまだ二時過ぎだ。
「うん、後は夕食の準備ができるまで好きにしてていいよ。私もフロント裏の休憩室でゴロゴロしてるから」
何だか結構あっけない。もっと忙しい物かと思っていた。俺は瑞樹に付いて行き休憩室に行ってみた。フロント裏の大型金庫やロッカーの向かいに六畳の和室のスペースがある。そこには卓袱台とテレビが設置されており雑誌と座布団が散乱していた。この裏にはすぐ調理場の休憩室がありその向こうが調理場になっている。厳吾さんと和子さんが忙しそうに調理をしているのが見えた。
「なあ瑞樹。お前はここに住んでいるのか」
「うん、ここの二階だけどね。本当は隣村に自宅があるんだけど最近帰ってないなー。用事ないし」と言いながら和室の隅にある急な階段を指さした。
「そっか、大変なんだな……」
その場所は俺の居る遊戯室の真隣だった……。
俺は一旦遊戯室へと戻り、夕まで仮眠を取る事にした。一番奥の座敷で座布団を丸めて枕にし横になる。その窓からは霧雨大明神社が良く見えた。
「おや……?」
ここから見ると神社の本殿の裏手からさらに石段が続いてるのが判る。その石段の上には大きな門があり、その向こう側から湯けむりが上がっているのが見えた。この上にも温泉があるのかな? 俺はそのまま目を瞑った。
二時間くらいたったのだろうか……。ふと目を覚ますと向かいの座敷で瑞樹が少女漫画を読んでいた。
「ん? もう時間か」俺は慌てて身を起こした。
「ううん、まだだよ。あと一時間は大丈夫」瑞樹は漫画を読みふけりながらそう答えた。
「そこで何してんだよ」
「女将のお小言がうるさいから逃げて来た」
「何か、問題でもあったのか」
「ああ、違うよ、御影君の所為じゃないよ。銀杏の間の仕事が入るといつもこうなのよ。他の旅館からも沢山ヘルプが入るし、料理も街のホテルからケータリングで持ってくるのよ。面倒事が多いからピリピリしてんのよ。まったく、嫌になっちゃう」
「そうか、それならいいけど」
「ふん」
「なあ瑞樹。この後の仕事は何すんの」俺は座布団に座り直して聞いてみた。
「この後は……やって来たお客さんを御部屋に誘導するのと、夕食の配膳の手伝いと、後片付けかな……本当はもう一つやってもらいたい仕事があるんだけど、それは、終わりの時間を見てかな。遅くなっちゃうと悪いし」
「何の仕事」
「んーとね、源泉のお掃除」
「それって大事な仕事じゃないのか」
「そーだねー、でも大丈夫だよ。今晩出来なかったら私が明日の昼にちょちょっとやっとくから」
「そっか……。それにしても源泉か……」
「ん? なに」
「いや、ここ温泉旅館だったんだよな。お風呂のイメージが薄いから忘れてた」
「ああ、あれね。よく言われるわ。昔と入浴スタイルが違うから……。昔は一人一人が温泉に浸かって次の人が外で待ってたのよ」
「へー、珍しいスタイルだな。それで浴室が三つもあったのか」
「そう? この辺りではそっちが普通なのよ。今でも他の旅館はそうしてるとこもあるわよ」
「ふーん」
「もしかしてお風呂に不満」
「まあ、ちょっとね。露天風呂でもあればいいのにと思った」
「ふーん」
そう言いながら瑞樹は漫画から視線をこちらに向けた。そして意味深そうに囁いた。
「あるわよ、露天風呂」
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