学校に行きたくない。

テレンス

第1話 兄殺しガール

  学校に行きたくない。


  明日は七月の第二月曜日だ。別に人間関係だとか勉強に関して悩みがあるわけではない。質の良い友達、決して悪いとは言えない成績。現状に満足しているとまでは言わないが、それらは学校に行きたくない理由には到底及ばない。

  かといって、学校に行きたくない明確な理由があるわけでもない。それでも毎週月曜日、特に私は月の二週目に憂鬱になる。花瓶に挿しておいた花が萎れて力なく垂れ下がるみたいに、心のヒダの重みが増すかのようで不快なのだ。そう自分に言い聞かせ続けてきた。


  「早夜サヨ、明日は学校だろ。課題は済ませてあるんだろうな?」


  ソファで横たわり、ゴールデンタイムの人気バラエティ番組を見ていた兄はそう言った。彼も私と同じ高等学校に通っており、私よりも一歳年上である。私はその兄が使った食器を台所で洗っていた。


  「とっくに終わってる」


  「そんならいいけど。お前が何かしでかして怒られるのは俺なんだからな」


  その時、兄の愛用するマグカップが目に入り、一瞬割ってやろうかと思ったが酷い目に遭う事ぐらい私にはわかっていた。去年だって、毎年恒例の両親が私たちを放置して旅行に行くこの時期に…。


  「なあ妹よ、兄である俺の願いを聞いてはくれまいか?」


  「どうしたの急に。そんな気持ち悪い喋り方して」


  ほら見ろ。そろそろ下卑たことを言い出すんじゃないかと警戒していたが、杞憂ではなかった。一度隙をついただけでいい気になって、馬鹿みたい。


  「去年みたいにさぁ。な、いいだろ?また外に出すから」


  堪忍袋の緒が切れた。洗い終えた皿を床に叩きつけ、飛び散った破片のような鋭い目で兄を睨みつけた。


  「調子に乗らないで!私が許したとでも思ったの?あんなことされて?もう機嫌とるのも限界だったんだよ…?」


  実際私はこの兄のせいでかなりやつれていた。次第に自分がみすぼらしくなっていくのも、手に取るように感じとれた。家にいるのは辛い。それでも、無様な自分を隠しながら学校に通い、偽りの笑顔を貼り付けて過ごすよりは家にいた方が気が楽だった。


  「は?それが兄に対する態度かよ。しばらく俺の言いなりになってたから、そろそろ頃合かと思ったら何なんだよそれ?一生子供産めねえ身体にしてやろうか?」


  テレビの光に包まれていたからか、兄の姿はより一層恐ろしい化け物のように私の目に映った。私が咄嗟に手に取った果物ナイフ以上に強力なナイフを彼がぶら下げているとでも言うのか。


  『武川さんそれトマトやから!』


  乾いた私の素肌を潤す液体がテレビの音声とリンクしたように感じた。

  私の上に兄が覆い被さり、彼は私の首を硬い両手で掴んだ。ああ、また私は食い尽くされるんだ。兄はさっき「外に…」と言ったがあれは嘘だ。

  一年前、彼の粘ついた気色悪い液体は私の窮屈な洞窟を充たした。あの時私は血と汗にまみれ、意識が朦朧としていたが決して忘れないし、許さない。


  「痛い…!苦…しい…」


  生肉を揉みしだくような不快な音と共に、私の顔にまで生臭い液体が降り注いだ。鉄みたいな味。これなら土砂降りの酸性雨にさらされる方がまだマシだと思える。


  「熱づづぃぃぃぁぁぁ゛ぁ゛ぁ゛……!!やめて…く…」


  薪割りの如くナイフが繰り返し前後に運動し、視界がドロドロに溶けてゆく。


  『もはや原型留めてないじゃないすか〜!ほらもう、床がびしょ濡れ、真っ赤っすよ!』


  首を絞めつける兄の力が次第に弱くなっていく。しばらく二人で絡まって床を転がりまわり、私が兄に馬乗りになった刹那、私ははっと我に返った。


  『ああトマトが台無しに…はっはは…!だからちゃう言うたやろが!』


  兄は白目をむいて涙を流していた。切り裂かれた首元と心臓付近からは血液が波のように溢れ出しており、密着していたせいで私の服にもべっとりと付着している。

  死んだ。兄が死んだ。そうじゃない、私が殺したんだ。みるみる血の気が引いていくのがよくわかる。


  「違う、私のせいじゃない…!」


  そうか?兄がもし去年の行為について謝罪するつもりだったとしたら?私の早とちりだったとしても同じことが言えるのか?しかし、そんなことはどうでもよかった。私が兄を殺した事実は間違っても覆されることはない。

  身長180cm近くの男の死体を非力な私がどこか遠くまで運べるはずがない。分解して森の奥まで連れて行き葬ろうか、いっその事この家ごと灰になるまで燃やしてしまおうか。だが全て私のしたことだ、部外者に迷惑がかかるような手段を選ぶ訳にはいかない。殺人を犯して尚、心にこびりついて残った一握りの良心に引き止められたような気がした。

  とにかく、両親が帰ってくる前にどうにかしないと。かといって、いつまでもほっぽっておけば、私が学校に行っている隙に異臭に気づいた近隣住民に通報されてしまうかもしれない。

  それ以前にこんな精神状態で友達に顔合わせできるはずがない。名前を呼ばれたり、満面の笑みを向けられでもしたら私という人間は完全に壊れてしまうだろう。


  大きくため息をついてから、ようやく今まで心に秘めてきた弱音を吐いた。


  「学校に…行きたくない」

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