第30話 ストックホルム症候群?


 その二時間後、外は昼前かという時間帯に、不意に騒がしくなった。

 立て続けに軽い爆発音が続き、続いて階段を駆け下りる足音。そして、ドアが開く。

 真由は、アルマニャックの二杯目のグラスを飲み干したあたりで、チェイサーの氷の小片を齧っていた。

 黒ずくめで、バラクラバ帽をすっぽりと被った男が、拳銃を持ったまま部屋に乱入してきた。


 無言で近づいてくる相手に向かい、真由は誘いの手を伸ばした。

 その手を取ろうとした男の腕を、合気道の四教で固め、拳銃を奪って男の背中側に回る。

 弟の仲間が助けに来たかもと最初は思いもしたが、バラクラバ帽の目元から覗くのは、明るいグレーの瞳だった。さらに、その目元にはみ出ているのは、金髪と同じ色の眉だった。それも、日本人が脱色して染め直したような、どことなく直毛感の残った嘘っぽい色ではない。柔らかいウェーブのある髪質といい、決してモンゴロイドのものではなかった。

 「せっかく居場所を作ったのに、邪魔しないでよね」

 英語で、男の背中に吐き捨てる。


 次の瞬間、真由にはなにが起きたか解らないまま、攻守は逆転していた。

 いつのまにか、自分が腕を決められている。たいして痛くはないが、全く身動きできなかった。

 拳銃も魔法のように奪い返されている。

 何が起きたのか、全く想像もつかない。

 合気道の道場主は、近くの自衛隊の基地司令も通っているほど、実戦的な技法を教えてくれていた。相当数の他武道の道場破りも撃退してきたと聞いている。それどころか、近隣の道場で「実戦」が必要な事態には、内密の介入もしているという。

 それでも、ここまでの見事な方法を、真由は未だ習っていない。

 男の手が、真由の両手首をまとめて握ると、乱暴に真由の左の耳の穴に何かを突っ込んできた。

 真由は悲鳴を奥歯で堪えた。

 悲鳴を上げて、相手の嗜虐心を煽ることはない。とっさにそんな判断も頭をよぎったが、それよりただ単に、叫ぶのが悔しかったのだ。


 そこへ、緑の大男が、拳銃を構えて部屋に飛び込んできた。

 「基礎ができていないな。階段に近い部屋からクリアしていくものだ」

 そう言いながら、構えた拳銃デザートイーグルの撃鉄を起こす。

 これはパフォーマンスだ。

 おそらくは、緑の大男もバラクラバ帽からのぞく瞳の色や金髪、そしてその装備を見て、自国の右手と左手の争いと思ったのだ。そうであれば、妥協点を見出すことは容易い。

 必要もない撃鉄を起こすという行為をしたのは、同国人同士で発砲に至らないための儀式のようなものだ。


 おそらくは、隣の部屋のモニターで、タイミングを伺っていたに違いない。

 真由が侵入者を制圧したのを見て、驚きつつも即対応したのだろうが、結果としてタイミング的には最悪である。真由を人質に取られての交渉になってしまったからだ。

 それでも、地下室というこの場からは逃さないことは容易なこと、という認識が緑の大男にはあっただろう。

 しかし、次の瞬間、部屋はこの上なく純粋で清らかな白で溢れかえった。



 「君、大丈夫か?」

 緑の男が聞くのに、「ええ」と答える。

 そして、続いて吐き出された、お下品な四文字の単語については聞かないふりをする。

 「閃光発音筒スタングレネードだ。

 炸薬の量は室内向けに相当に減らしてあったようだが、視力が戻るのにはもう少し時間がかかる」

 「私は大丈夫。

 あなたは正面から光を見ちゃったからね。

 私は、抑えつけられていたから、床しか見えてなかった」

 「とりあえずは、こちらが出口を塞ぐように動いたので、全力で逃げにまわったのだろう。結果として撃退できたのだろうが、ここまで入られるとは思わなかった。

 君もよく残ってくれた」

 「言ったじゃない。

 高い酒を運んでくれたから、信用している。

 金髪が見えたから、あなたの国の別の組織かも知れないと思ったけれど、一からまた居場所を作るのはさすがにリスクがあると思ったのよ」

 緑の大男は、その筋肉が無力だったことを自嘲しているのか、その体に似合わないほど小さく肩をすくめて力のない笑みを浮かべた。


 そして、自嘲をこめて苦く言う。

 「ストックホルム症候群だな」

 「私が?」

 「いや、俺が、だ」

 「?」

 「どうでもいい、とりあえず守りはさらに固める。

 二度とこのクソのようなことはない」

 「頼むわ。私にはなにもできないから」

 「それはどうだか……。

 さっきは、なにをした?」

 「日本人なら、簡単な武道ぐらい子供の頃から誰でも習っているもんよ。

 初歩の護身術に過ぎない」

 そう、はぐらかす。

 相手が、日本のことをまだよく知らないことにつけ込んだのだ。

 とはいえ、真由自身、アルコールが入った勢いで、いつも練習していることができただけという意識しかない。


 「信じられるかよ……」

 そう呟きながら、半ば手探りで緑の大男は部屋を出ていった。

 部屋に鍵が掛けられなかったことに、真由は気がついていた。

 地下から逃がすつもりはないにせよ、これから先、トイレに行く自由くらいは与えてくれるのだろう。それだけの信用は得たことになる。


 そして、真由の左耳には、弟の声が聞こえていた。

 閃光発音筒スタングレネードが破裂する寸前、「お姉ねえ」と呼びかけられたのだ。

 そして、口早に事情の説明が続いている。


 バラクラバ帽から覗いていた金髪は、同士討ちを誘う手なのだという。

 「容赦なく関節キメちゃったわよ。痛かったんじゃないかな?」とも思ったけれど、口に出して話をするのはさすがに怖かった。

 というか、通信手段ができたら、急に怖くなってきたのだ。

 そのあたり、どういう心の働きなのか、真由本人にも解らない。

 その後は、馴染みの声の菊池慧思に話し手が替わり、今までの詳細とこれからの対応が細かく話されている。


 この部屋が、モニターされていないはずがない。弟たちには、緑の大男との会話からこちらの状況を察してもらうしかなかった。

 ただ、髪にだけは気をつけなければならないとは思っている。

 左耳は、通常髪で隠れている。右耳は時々かき上げているが、左をかき上げることは普段はない。無意識に失敗することはないと思うが、意識をしてしまうとしでかしてしまうことがある。それが人間というものだ。



 − − − − − −


 「大尉、どうされましたか」

 「なんでもない」

 援護してくれた若い「とねり」にそう答えながら、遠藤は舌打ちをする。

 金髪のついたバラクラバ帽を脱ぎ、カラーコンタクトを外す。

 右肩に鈍い痛みが残っている。

 油断していたつもりはなかった。

 紛れもない実戦の場なのである。


 人質が救出部隊に誤解から襲いかかることなど当たり前にある事故だし、それへの対処も常識であって油断していたつもりはない。

 徒手格闘において、小田に対してすらここ何年も出し抜かれたことなどない。

 その自分が、二十歳を超えたばかりの小柄な女性に、流れるような鮮やかさで関節を極められるなど、本来あり得ることではないと思う。


 手加減されたという思いが、自分自身の心を炙る。

 そして、あと数センチ技がそのまま走れば、肩は外れていた。

 結局は、指導者の教えに忠実に練習していて、結果として技をいつもの位置で止めてもらったということだ。練習で相手の腕を折ることはないからだ。

 今自分の肩が無事なのは、その手加減をしてもらった結果に過ぎない。

 おそらくは、あの双海の姉は、道場で習い覚えたあの技ばかりを、ただただ正確に一日数百から千の単位で反復しているのだ。


 万を持って一にあたるのでなく、一を持って万に応る。

 徒手格闘で、事前情報なしにそういった敵と戦うのは恐ろしい。

 腕が上がり、さまざまな技を駆使できる方が結果として強くても、その技だけを達人級に磨き上げた相手に、その情報を持たないまま対応するのは極めて危険だ。


 任務は成功である。

 通信機を双海の姉に渡し、地下室の階段周りに目立たないように電波中継機の設置も済ませた。

 現れた応援チームと菊池に対して笑っては見せたものの、いつもの任務終了の爽快感はなかった。

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