第28話 人質の状況


 千葉県の館山道を木更津から南下するにつれ、密集した住宅街からだんだんに、丘の狭間に数戸ずつの家が見られるような光景となっていく。

 そのような狭間の一つの一軒が、外見はそのままに、とあるアメリカの諜報機関のセーフハウスになっていた。

 家の外見は、前の住人の頃のままの木造軸組工法だが、その内部は最近、大きく改造された。

 一見してオフィス風ではあるものの、明らかに全てのサイズが大振りになっている。日本の尺貫法を基準としていないのは明白だった。また、それに準じて、什器類も強度の高いものが選ばれている。

 有り体に言って、セーフハウスと言いながら、基地といってよい作りなのだ。什器類の強度も、ライフルはともかく、拳銃弾を防げることという基準で選ばれている。


 また、ここには地下室が掘られており、トイレと二部屋が設けられている。

 一部屋は、通信機器が設置された武器庫になっている。

 最終的に立て籠もることも視野に入った部屋である。

 もう一部屋は、清潔で明るい部屋になっているが、当然のこととして窓はない。そして、床には溝が掘ってあり、排水溝につながっていた。

 地下室は外に音が漏れず、階段を封じるだけで逃げ出すことも不可能となる。

 これから先、この部屋で陰惨な拷問や処分なども行われるかもしれないし、排水溝もそのための備えである。人間は、感情や情報、そしてその生命とともに、その体からさまざま液体を垂れ流すものなのだ。

 だが、現在はまだ、この部屋がそのような目的に使われたことはない。


 今回、この部屋は、客としての住人を迎え入れる支度がされていた。

 簡易とはいえ、そこそこの厚さの寝具が備えられたベッドがあり、机と椅子も与えられていたし、空調も効いていた。

 双海真由がここに連れてこられてから、十二時間が過ぎようとしている。

 外は朝だと思う。

 スマホは取り上げられなかったが、当然のように電波は通らないらしく、アンテナは立たない。

 電池を節約するためにバッテリ消費を最小限の設定にし、時々時計を見る以外には使わないと決めていた。それでもどうせ、電池は保たない。だからといって、無策でいる気はなかった。


 ドアがノックされ、緑色のTシャツを着た、ムキムキモリモリのマッチョな白人の男が食事を運んできた。

 海兵隊か何かの出だろうと、真由は見当をつけている。

 無表情を装いながらも、人質に興味津々でいるのが判る。自分が、それなりに魅力のある若い女であることを、真由は解っていた。だから、どのような意味でも、刺激することは避けねばならないと思っている。

 なので、今まで、真由の方から話しかけたりはしていない。

 他にも人員はいるはずだが、たぶん顔を見られたくないのだろう。今まで、真由はこの男しか見ていない。


 自分を拐ったのが、いわゆる東側の勢力でないのは判っていた。

 自分の弟が、ある意味堅気の生活を送っていないことは理解していたし、このようなことに巻き込まれることもありうると思っていた。

 なので、過剰な怯えもないし、自分の価値も解っている。

 今回の自分は、何らかの取引材料であるということだ。それも割と平和的な。


 これが敵対的であれば、さっさと殺して、生きている前提で取引をすればよいのだ。誘拐と身代金がセットになった事件では、死体から切り取った指を送りつけ続けて、身代金を引き上げていくような悪どい例も珍しくはない。

 真由自身に価値があるわけではない。

 これは、上手くいけば殺すにも値しないと見てもらえるが、悪くするとついでに殺すというくらいに軽い命ともなりかねない。

 それを十分に理解している真由は、どこかで取引を持ちかけ、自分の価値を上げておくべきだとは思っている。


 食事の質は際立って良い。

 これも、自分が取引材料であるという考えを裏付けていた。

 殺す人質ならば、食事に気を使うことなどありえない。

 運ばれて来た朝食は、さまざまな小鉢、鯵の刺身、温かい味噌汁。どう見ても、プロの板前の手によるものだ。特に、刺身などは朝獲れ鯵だろう。身の輝きと身の締りが違う。

 おそらくは、この近くの旅館なりから運んでいるのだ。


 日常に戻れたら、案外簡単にこの場所を突き止められそうな気がしている。朝獲れ鯵を売りにしている旅館は、海辺でもそう多くはない。

 もう一つ、この朝獲れ鯵から判ることがある。ここにいる白人の男は、日本に来てからの期間が短い。これが特徴的な朝食であることを理解していないのだ。ただ単に、重要な人質に、良いエサを与えている感覚なのだろう。


 誘拐されてから目隠しはされたものの、車で走った時間と高速道路のジャンクションの数、食事に新鮮な海産物が多いことから、ここが千葉か伊豆のどちらかと真由は推測していた。

 そして、今回の朝食からここが千葉という確証を得ている。なぜならば、小鉢にピーナッツ味噌があったからだ。このあたりも、真由からしてみれば「ちょっとマヌケ?」と思うところではある。

 コンチネンタル・ブレックファーストが標準なアメリカ人に、地域色豊かな朝食は想像できないのだろう。


 とりあえず、現在のところ食欲は落ちていない。

 戦うためには、体力の維持が基本なのは解っているし、正直に言って上げ膳据え膳はありがたい。


 二年前に計画的に殺されかけてから、世間一般の若い女性のような恐怖を感じる能力が、自分は欠落したのではないかと真由は思っている。        

 昨年も、自衛隊基地内の安全な部屋に避難していたはずなのに、黒ずくめの男に侵入された。

 そのとき、真由は、合気道の二教でその男を取り押さえたのだ。自分が恐怖で竦まず、道場で練習しているのと同じ動きができたことに、一番驚いたのは自分自身である。


 二年前はそうではなかった。

 毎日毎日、アルコールを飲んで飲んで、どれほど飲んでも巻き込まれた犯罪への恐怖は去らなかった。頭の中がしんと冷えているその感覚を、真由は未だ忘れてはいない。

 だが、弟の上司にあたる、恐怖を日常とし、自らの制御下に置いている女性に会って以来、恐怖の仕組みのようなものが解ってしまったような気がしている。

 自分が無力で、相手の為すがままの立場に置かれる。これが怖いのだ。

 今は、この場に及んでさえ、きちんとした取引をすれば生きて帰れると思っているし、焦っても仕方がないことも解っていた。

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