第17話 女子らしく
地下の駅から、荷物のキャスターをごろごろ言わせながら地上に出る。
二ブロックほど先に、エンパイア・ステート・ビルが見えた。
ワシントンよりも、通りを歩いている人の数がはるかに多い。しかも、いろんな人種がいるみたいだ。
タクシーを捕まえて、ストリート名とホテル名を告げる。運転手は黒人の年寄りで、耳が遠いのか、俺たちの言うことがよく聞き取れないようだった。俺たちの発音が悪いのかもしれないけどさ。
で、地図を出して指差したら、今度は字が小さくて読めないと。
大丈夫か?
うーん。三人で顔を見合わせて困る。
そしたら、「お願いだから、この哀れな年寄りをあまりいじめないでくれ」だって。
言うんだ、その表現!
映画みたいでちょっと感激した。思わず三人で顔を見合わせたけど、本人を前に笑っちゃうわけにもいかない。
しかたないので、近くの地下鉄の駅を指定して、ホテルまで歩くことにした。
面白いなぁ。
ホテルは、七六番ストリートにあった。
石田佐が予約しておいてくれたホテル。
ウッディーでロビーの調度品もよく磨き込まれていたけれど、廊下は狭いし、なにより古いのは隠しようがない。「おいおい、ホテルまで骨董品かよ」と、ちらっと思ったのは内緒だ。
相変わらず、俺と慧思で一部屋、美岬が一部屋だったけど、それぞれ部屋に入るなり、美岬がものすごい勢いでこちらの部屋に押しかけてきた。
「部屋見せて!」
ん?
こちらはまだ、荷物を置いて、居室のクリーニングをしただけだ。
美岬が戸を開け放ったバスルームを見て驚いた。
すべての壁が、腰の高さから下は大ぶりなタイル、その上は鏡になってる。で、白熱球の照明が、縦に横にたくさん。鏡がないのはドアの内側だけ。洗面も陶器のアンティーク調。
ものすごく品がいい。
シャワーとバスタブもあるんだけど、こういうの、パウダールームっていうのかな。コンサートホールの楽屋の鏡みたいにも見える。日本のホテルには絶対ないんじゃないだろうか、こういうの。
機能的ではないかもしれないけれど、とても美しい。
振り返ってよくよく見てみれば、部屋もシャンデリアといい、やっぱり趣味は悪くない。
「ねぇ、ここでお化粧したら、女優さんになったみたいじゃない!?」
あらま、美岬の口からそんなセリフが出るとは思わなかった。
そうか、逆だ。
出るべくして出たセリフかもしれない。美岬ってば、根は相当のロマンティスト。シェイクスピアを愛読しているくらい。でも、普段は現実に押し潰されている。自分自身で、自覚して押し潰してもいる。
でも、この古き良きアメリカって感じのホテルで、本性、出ちゃったか。
「お化粧してみる?」
聞いてみる。口紅くらいは、持って来ているかもしれない。
もっとも、美岬の化粧した姿なんて、これまで一度も見たことないけど。
「リップクリームしか持ってない……」
がっかり、しょんぼり。
そんな表情。
そうか……。
不意に胸が痛くなった。
「つはものとねり」になんか関わっていなければ、「夢見がちな少女」でいられたんだよな。
下校時に買った、雑貨屋の安いコスメの色を比べ合って、屈託ない会話をする同じクラスの女子たちの顔が浮かぶ。校内でも口紅をリップクリームと強弁して密かに塗ってみたり、休日は思いっきりケバくなってみたりしている姿とかも。
俺も、強引にその輪に入らさせられることがある。香りの点から意見を聞かせろ、と。
思い返してみれば、美岬がその輪に入ることはなかったような気がする。
学校が終わるとすぐに家に帰り、二重生活のもう一つを始めなければならない美岬は、校内の社交的な態度と裏腹に、誰かと一緒に遊びながら帰るということがない。
そんなんだから、当然、アクセサリーなんかも、ほとんど持っていないのを知っている。
そして、なによりも、それを持つ時間の余裕も、気持ちの余裕もないのも。
なんかさ、考えてみたら、もともとが綺麗だから気が付かれにくいけれど、美岬は、女性らしく容姿を磨くという行為自体のほとんどを知らないんじゃないだろうか?
私服だって、決して多くは持っていないし、そのデザインのパターンも決まっていることに、今、気がついた。
そうか、そんなこと、口に出しては聞けないけれど、美岬の女子力ってば、いじめが始まる前の小学生の時のままなんじゃないか?
一緒にいることが少ない母親も、たぶん、そっちの方面は二の次、三の次にしているのだろうし。
男の俺が何かができるわけじゃないけれど、せめて、女の子らしいことをさせてあげたいと強く思った。
「夕方になるけどまだ外は明るいし、お化粧品買いに行こうぜ。おごるよ。服もおしゃれしよう。
行こう!」
美岬は、いきなり俺の服の胸の部分を掴むと、そこに顔を埋めた。
五秒後、輝くような笑顔を見せて、頷いて見せた。
「俺、自然史博物館に行ってくるから。今日はレイトディだし、遅くなるよ」
ぼそぼそと言って、慧思が部屋から出て行く。
済まない。本当にごめんな。
アメリカに来てまで気を使わせて、本当に悪い。
− − − − − − −
ホテルのコンシェルジュに聞いたら、夕方以降の営業時間の余裕の確認も含めて、複数のお店を紹介してくれた。ついでにタクシーも呼んでくれた。
お礼のチップをはずんで出かける。
ニューヨークは、一昔前までは治安の悪い最悪の街だったと聞いているけれど、今はそんなことはない。基本的な注意はしていないとだけど、それは日本でだって同じだ。
目的地は五番街。
まずはお化粧品。
ホテルで紹介されたお店のうち、単に高級そうなところに入る。
だって、ブランドとかも知らないし。美岬も、「資生堂とポーラの名前なら知ってる」という、途方もなく頼りない知識を白状したので、ここでは何の役にも立たない。
で、時間はあまりないし、肝心の美岬が、メーカーどころかお化粧品の種類もその使い方すらよく知らないし。
もしかして、姉がいて、クラスの女子のコスメ選びのオブザーバーを押し付けられている、俺の方が詳しいかと思うくらい。
仕方ないんで、店に入るなり「化粧品、一式!」と思い切り乱暴な買い方。
でも、それからが大変だった。
店員さんが、美岬を見て目の色を変えた。
ここでメイクして行けと。
すべて良い色を選ぶし、全部してやるからと。サラ・ヴォーンみたいなサビのある妙にいい声で、「いいでしょう?」としつこい。
「どうする?」
聞いてみる。ホテルでお化粧したいのだろうし。
でも、今まで化粧したことないもんな、できるのかな? と。いくら女性でも、本能で化粧はできなかろう。
ま、さすがにそんなこと、直接的に聞くのは失礼だから、婉曲に。
でも、内心、産まれて初めてチークを自力で入れたら、アンパンマンになっちゃうのは予想できたんだよね。
「うーん、してもらう……。服を買うときに、合わせられた方がいいよね?」
やっぱり自信がないんだな。
「ん、じゃあお願いすればいいよ。ただ、服も買わなきゃだから、そんなに時間が長く掛からないようにしないと」
「わかった。それも言ってみるね」
一言、二言。
「服も、ここのお店の階違いの売り場で選んでくれるって!」
「じゃ、美岬の好みに合うならば、全部任せちゃえ!」
「うん、そうする!」
こんなに「!」が付くような会話、初めてだよな。
いつのまにか俺、現状を追認する形で、美岬に対していろいろを我慢させる側に回っていたんじゃないだろうか?
そんな反省をしだしたとき、別の店員さんが俺に声を掛けてくれた。
椅子を用意してくれて、待つ態勢を整えてくれている。
そして、Girl friendにどのようなコーディネートを望むかと、聞いてくる。
ぴんときた。予算を聞いてきているんだ。
任せろ。
給料は、二年分、生活費の月々数万以外はほとんど貯金してある。三桁はあるぞ。けれども、相場が判らない。
ユニクロやしまむらで、ですら女性の服の値段なんかわざわざ見なかったし、ましてやこういう高級そうなとこなら、なおさら判らん。
「五分待って」
とお願いして、姉にメールを打つ。
入ったお店の名前と、服と化粧品、コーディネートしたら一式でいくらかと。
日本は夜中だけど、時差なんか糞食らえ。
姉からの返信は、呆れるほど早く、そして短かった。
「五十万(円)」
それだけ。
姉らしいといっちゃ、ほんと姉らしいわ。
で、その額に、びっくりしなかったと言えば嘘になる。でもな、ここで仇を討たなきゃいつ討つんだ。いいじゃねぇか、出すぜ、いくらでも出すぜ。
つはものとねりからの給料を、つはものとねりに奪われた幸せのために使うんだ。問題ない。
「レディにしてください。4000ドルぐらいで」
店員に囁く。
店員はにこやかに頷いて言う。
「靴も揃えますね」
鷹揚に頷くけど……。
けど、内心は忸怩たる思い。
靴かぁ。思いつきもしなかったわ。
そうか、姉はそこまで考えての金額提示なのかな。
さすがに伊達に長年、女をやってないな。
それに、美岬が、おしゃれらしいおしゃれなんかしたことないの、知ってるからなぁ。だから、初期投資がかかるのは判るか。
あ、美岬が化粧品のカウンターから拉致された。
……とりあえず、待つしかないよな。
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