第42話 髪
ようやく、隣接した雑木林に逃げ込む。
「怪我はない?」
俺の質問に、美岬は頷いた。
たとえ怪我がなくても、本当に怖かったはずだ。
「一瞬だけだ」
そう言って、美岬をぎゅっと抱きしめ、一瞬だけ、唇を触れ合わせる。
「無事に帰るぞ」
そう言って、手を離す。
美岬も一瞬だけだが、自分から抱きつく腕に力を込めた。
慧思が驚愕の表情を浮かべた。一瞬で緊張したときのにおいが噴き出す。
反射的に振り返り、視線の方向を追って、そのまま身体が恐怖のあまり硬直した。
殺気を形にしたようなドーベルマンが二匹、一直線にこちらに向かって走ってきていた。
「美岬!」
叫んで、抱き寄せる。小柄でほっそりした美岬の腰に右手を伸ばす。一瞬のアイコンタクトで、一万もの言葉を交わした以上に解り合える。
美岬の腰を抱きよせ、右腕で一気に持ち上げる。
ははっ、完全にじん帯が伸びたかも。でも、左手じゃ、こんな器用なことできないからな。
美岬は同時に地を蹴り、俺の肩に足をかけ、そのままスピードを殺さず更に駆け上がる。四メートル近い高さで横に伸びていた枝につかまり、逆上がりの要領でさらに枝の上に登る。これで高さは五メートルを超えた。この高さが、犬には目眩ましになるはずだ。
あ、鼻眩ましか。
たとえ鼻眩ましがうまくいかなくても、これでいくらか時間は稼げるはずだ。
右腕が痛い。ここまで来ると笑うしかないほど痛い。痛み止めなんか、もう効きゃあしない。
不思議と、生きている実感が湧いた。生きているからこそ、ここまで痛いんだ。でも、美岬には、そのそぶりは見せない。やっぱりやせ我慢だ。
俺は、三メートルほど戻って、ポケットからビニール袋に入った美岬の髪の毛を取り出す。
まさか、こんな場で、こんなときに、こんなことに使うことになるとはな。
右腕が動かないので、一本づつなんて器用なまねはできないけれど、少しづつそれを撒く。当然、風向きを考えながらだ。
風は、ゆるやかに南。
俺の属性は、犬だぜ。
犬を騙すことができないわけがない。
あの犬たちは、美岬のにおいを知っているはずだ。そして、追えと命令されたら、どこまでも追ってくる。
横を見ると、慧思が手を伸ばしている。
コイツの意思も、話さなくても解る。
了解だ。
目で応えて、美岬の髪の半分を渡す。
犬を二手に分かれさせようという提案なのだ。
だが、もう、時間がない。どこまでのことができる?
俺は風向きを考えて、慧思の走る方向を手で示す。
風上、真正面。においでわかっている。
「川がある!」
それだけ叫ぶ。慧思に、意味は通じたはずだ。
慧思は、美岬の髪の毛を銜くわえると引きちぎった。なるほどな、これで本数が倍になる。合理的な判断だ。そのまま、走り去る。
でも、俺にはできなかった。たかだか切り取られた髪の毛であっても、美岬の髪を更に切ることはできなかった。非合理的だが、俺にはできない。
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