第4話 三つ目、四つ目
「ただいまぁ」
空に夕闇の色が消えて、完全に暗くなった頃。
姉帰還。
再度だか、再々度だかに寝落ちしていた俺も、それで目が覚める。
忍び足でない人間って、出す音量がでかいな。で、これが生活音ってやつだよ。
姉、二階に上がってくる。
「いやー、悪いことしたわ。
真のお昼のことなんか、きれいに忘れてた。なんか食べれた?」
「500キロカロリーに欠けるほどには」
「なに、その中途半端な摂取?」
ハーゲンダッツは244キロカロリー、それが二つで488キロカロリーだ。食べるときに、カップを確認した。
でも、それを説明するのもなんか億劫。
「いや……」
「薬は飲んだ?」
「飲んだ」
「じゃ、熱は下がるね?」
「うん」
「美岬ちゃん、来てくれてよかったね。それで何か食べられたんでしょう?」
「……」
不意打ちに、驚きすぎて声が出ない。
「なぜ?」
「ポストに鍵が入っていたから」
「それは慧思だ」
「わかってる。でも、菊池くんが来たとして、熱出して寝ている真を玄関まで呼びつけるとは考えられない。そういうとこ、デリカシーあるよね、彼」
「それはそうだけど……」
「菊池くん、勝手に入って、きちんと玄関から出たんでしょ?」
「はい、そうです」
おもわず、敬語モード。
「来ないわけがない美岬ちゃんは、勝手に入って、勝手に出たんでしょ?」
考えもしなかった。
そっかぁ、気がついたら来ていたし、気がついたら帰ってた。そもそも美岬には、玄関の鍵なんかなんの意味もないしね。施錠したって、うちのシリンダー錠なんかせいぜい二秒くらいしか稼げない。逆説的だけど、だからこそ、そのままにしてある。それで「この家に秘密なんかありません」って、宣言しているんだよ。
美岬んちは、逆にマジに秘密がたくさんあるから、施錠含めて要塞化されているんだ。
作戦対象施設が施錠されているのは当たり前の話なので、所要時間がコンマ五秒から三十秒まで、各解錠方法の訓練もブログラムのうちだ。俺はまだそこまで行ってないけど。
自分が異常な常識の世界の住人になってしまったことを、改めて、それはもうつくづくと自覚する。
「で、美岬ちゃんが来なかったら、菊池くんも来なかったんじゃないかなぁ」
「あっ!? えっ!? そういうこと?」
理解が押し寄せてくる。
慧思ってば、俺たちの上司筋にあたる美岬の母親から、様子を見てこいと言われて来たんだ。うわー、めちゃくちゃありそうだ。
となると、慧思が俺を裏切ることもありえないし……。きっと、慧思、美岬が帰ったのを確認してから、俺の部屋に入ってきた。
で、薄ら寒い今の時期でも、ハーゲンダッツが半解けになった。たぶん、美岬が長居をしないという読みと、まだ気温が高くないということで、慧思のやつ、動線の節約をしたんだ。美岬が帰ってからコンビに行くと、完全に二度手間だからね。
ともかく、俺に対しては美岬と会うのを邪魔せず、美岬の母親に対しても確認を行ったと報告し、どっちにも義理を果たしたんだ。
「ま、居間に降りなさい。
私、黙っておくから」
お
「黙っているって、ただ来て、ただ帰っただけだ!」
「いいから、いいから」
「お姉、いや、だから話を聞けと……」
「風邪ひいているのに、無茶して何かしたとは思ってないよ。うん。私は、ね」
ぐうの音も出ない。
俺の言っていることを信じていることも判るけど、なにをどう言っても、今はネコがネズミをいたぶるモードになっている以上、姉は決して分ったとは言わない。
その姉のS心を満足させてやる謂れはないので、俺は黙る。
階段を降りながら、宥めるような口調で姉は続ける。
「いつもの、けんちんうどん作ってあげるから、ちょっと待ってなよ、ね」
「うるせー!
もっと俺を信用しろ!」
「信用?
熱、出してたからじゃないの?
健康でも信用できるん?」
「ぐっ……」
そこまで言われると自信、あるわけない。
結局、姉のS心の掌の上かよ!?
姉、根菜類を洗いだしながら言う。
「あそこんちの母親、このくらいは突っ込んでくるよね」
「ああ」
そうだろうな。
絶対だ。
改めて思う。「えらいの彼女にしちゃったよなぁ」と。
後戻りする気なんかないけど、そのくらいは思ってもいいよね。
そして、問い詰められることに対して、予行演習ができたことはよしとしよう。
ファンヒーターを点け、背中を温めながら、姉の包丁が動くのをぼーっと眺める。
くるくると動いていた姉が、目の前に立つ。
「真、あのさ、醤油がないんだけど?」
「ああ、慧思が持っていった。
雑誌とか持ってきてくれたんで、物々交換」
「あのさ、言いにくいんだけど、けんちんうどん、作れないよ」
「使いかけの瓶はないの?」
「ない」
「マジか?」
健康ならば、自分で買いに行くんだけどな、って、もう、お店閉まっている時間だ。
「別のをだけど、買ってくる?」
「それはちょっと……」
ケミカル臭のする醤油は勘弁して欲しい。いくら鼻が詰まっていても、口に入れたらさすがに判るだろう。
「しかたないね。夕食ちょっと遅くなるけど、今からご飯を炊いて、これは豚汁に改造しちゃうから」
「へーい。
生姜のすりおろしを薬味で入れたいんだけど、頼める?」
「いいよ。
薬味はもう刻んじゃってあるから、そのまま出すよ。
で、しょうがないから、アイスクリームでも食べて腹つなぎしなさい」
えっ、なぜ、またアイス!?
「なんかね、職場に差し入れがあってみんなで分けたんだけど、変わったのから取られたから、みんなが取らなかったバニラが残ったのよ。で、弟が風邪ひいたってのは雑談で話していたもんだから、持っていってあげなよって、いくつも保冷バッグに入れてくれた。
喉痛くてもこれなら食べやすいでしょ」
なんかさ、俺の中で、バニラの価値が段々下がるのはなぜ?
美岬のは心配り、慧思のは経済的理由、姉のは残り物だから、だ。
それなのに、アイスクリーム自体がここに来るのは、それぞれの好意なのが切ない。
で、渡されたアイスクリームを持ったまま、なんか、どんよりする。
体が欲していない。
「……アイス、要らない」
「なんでよ?
いつも好きじゃない?
食欲ない?
大丈夫?
まさか、そんなに体調悪いの?
今からでも、医者に行こうか?」
姉が濡れた手を拭きながら、心配そうに近寄りながら矢継ぎ早に聞いてくる。
なんか、それを見たら、姉と姉の職場の人たちの好意を無にするような、「今日、三個目」というのは言えなくなった。
「やっぱり、食べる」
「そうしなさい。二つ食べていいから。
食べて、体温めて、きちんと寝れば治るから」
体を温めて、ねぇ。
寄ってたかって、冷やしているよなぁ。
ため息。
妙に色褪せて見えるな、このカップ。おまけに妙に冷たく感じる。
追い打ちをかけられた感が強い。
こういうの、なんて言うんだろ?
「愛が重い」より「愛が冷たい(物理)」かな。
そして、「小さな親切、塵も積もれば水の泡」だ。心配してくれたのを、塵と言っちゃ悪いけどさ。
その後……、俺は発熱の中、夜を徹して大量の雉を狩ることになった。
くわばら、くわばら。
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