第2話 2

 それは、扉の影にひそみルエキラのようすを伺っているように見えた。見えた、といってもおそらくは侍女などには知るところではなかったはずだ。

 しかし、ルエキラはその形を読み取る。影に向けられる視線を感じる。それは床をずるずる這い、テアの寝台へにじりよる。

 テアは何も知らずに体を空けている。おそらくは、「外」で風を味わっている。それを邪魔したくはない。今もどってきてもひどく恐ろしい思いをさせるだけだ。けれど、彼女がもどるまでにこれを退けたい。

 ルエキラは奥歯を噛みしめた。すでに何度か遭遇している。奴の狙いは分かっているのだ。

 体が欲しい……すでに亡くした体の代わりに……。今までにこの部屋で何度か遭遇した邪な思念の塊。

 這いずる影はいつしか壁を伝って天井へ伸びていく。それと同時に空間に煙のような黒いものをまき散らす。さざ波のように感じる空気の揺れは、影の息づかいか。

 ルエキラはテアを背に影と対峙する。大切な花嫁に指一本触れさせぬ。両目に力を込めると、いつしか瞬きも忘れていた。

 帯に挿した儀式用の宝剣に手をかけた。冷たい柄を握り息を止め、伸びあがった影めがけてルエキラは短剣を投げつけた。

 だん! 

 鋭いやいばは影を切り裂き壁に突き刺さった。同時にルエキラは聖句を唱えた。神官いちの美声と称えられる歌声は、見るものが見れば螺旋状に渦巻いていると分かるのだという。

 広がる歌声にまかれ、影は身を苦し気によじりながら徐々にその姿を薄くしていった。やがて壁に刺さった宝剣が落ちて奴の消滅を知らせた。

 消える姿を見届けると、大きく息をつく。ルエキラはよろめき姫の寝台にくずおれた。額に浮かんだ冷たい汗をぬぐっていると、寝台についた手にそっと触れるものがあった。

「ルエキラさま……」

 季節外れの花の香りがしたように感じた。ルエキラは目をさましたテアに瞳を転じた。

「お帰り、わが姫」

 きらめく萌黄色の瞳がルエキラにほほ笑みを返した。一般の尖耳族のような黄金の瞳とは違い、緑色だっという母親の色を引き継ぎ、萌黄色なのだ。

 無事に戻ってきた。ルエキラは安堵し、テアの額に口づけた。

「外に見たこともないような輿がありましたわ」

「父が奮発して作らせた、花嫁のためのものだよ。さあ、用意はできているのかな。迎えにきたよ」

 ルエキラはテアの手をとり、寝台から立ちあがるのを手伝った。華やかな花嫁衣裳の上から、雪豹のマントを着せかけると肩を抱き、部屋の……城の外へと姫を導いた。


 首都ウィルカのある高地は、風はまだ冷たいけれど日差しは春の眩さに輝いている。テアは天蓋つきの輿に乗り、静かに紫薇城をあとにした。輿は八人の屈強な武人に担ぎ上げられてルキエラの屋敷を目指した。行く先々で民人がこうべをたれ、王家のすえ娘テア姫に畏敬の念を表した。ルキエラは輿の横につき従い、テアのようすを注意深く見ていた。

 テアの体は、城の外へと出たことはほとんどないといってよい。生まれつき病弱な姫は、あてがわれた部屋と小さな バルコンだけが住いのすべてだった。

 だからこそ、テアの能力ちからは花開いたのかも知れない。外への強い憧れが、テアの体から心を自由にさせることを。

 輿の揺れに酔うこともなく、幼い子どものように市街地を見渡す姫の頬は薔薇色に光っていた。やがて到着した屋敷の門から入り口の扉までは紫の敷物が敷かれていた。王家の姫の輿入れに相応しいよう、細心の注意が払われている。

 季節がら、まだ生花が手に入らないので薄い布や紙で作られた花が飾られてあった。一族が集まり、左右に人垣ができている。みな正装してならび、姫が輿から降りてくるさまを見守っている。

 ルエキラに手を引かれて絨毯を行くテア姫を送る従者や王家のものは誰一人としていない。それがこの婚礼の不自然さを物語ってはいるが、誰もが知らぬふりをしているのだ。

「父うえ、母うえ」

 ルエキラはテアと共に両親の前で片膝をつき、挨拶をした。両親もまた正装をし、父はどこか落ち着かなげに何度もほとんどない髪に手をやった。父よりも背の高い母はぎゃくに落ち着いて見えた。

「初めまして、テアにございます」

 テアが言葉を発すると、王家の血脈のなんたるかを深く理解する父の顔が真っ赤になった。

「ひ、姫さま」

 上ずった声を一言発したきり動けない、そんな父をしり目に、母はテアに手を差し伸べると極上の笑みを浮かべ、テアを抱きしめた。

「ようこそ。なんて愛らしいの。あなたが娘になるなんて、とても嬉しいわ」

 テアは両頬に手をあてて肌を紅潮させた。そのままテアは母親に案内されて、館へと入っていった。

「親父」

 ルエキラは小声で固まったままの父親を促し、その後に続いた。


 王宮の宴に比べたなら、ささやかなものだったろう。けれど、祝いの席に駆けつけたルエキラの親戚や友人たちは、テアを温かく迎え入れた。

 神官であるルエキラの友人たちは、楽器や歌の名手ばかりでその技を惜しげもなく披露し宴を盛り上げた。温かい料理が厨房から次々と運ばれ、卓に並べられた。油がはねる山鳥や羊の焼肉は香ばしく、酒は柘榴・山梨・カリン、蜂蜜酒などが飲み切れないほど用意された。

「しかし、どうやって姫さまを射止めたのだ。専属の教師になったとはいえ、なかなかできることではないだろうに」

 神官の一人が、ルエキラの杯に酒を注ぎながらたずねた。となりに座るテアがわずかに体を固くしたのが分かった。ルエキラはテアの肩を抱きよせた。

「せがれが言うには、ずっと前から知っていたと言い張ったのだよ」

 酒の酔いが回り、だいぶ緊張がとけた父親が説明を始めた。

「なんども夢に見る姫さまがいると言って聞かなかった。それで、式典でテア姫さまを初めて見た時に見つけたと騒いで、騒いで」

「お願いです、それくらいで許していただませんか父うえ」

 恥ずかし気におもてを伏せたテアに、父親もさすがに口をつぐんだ。

「そうなのだよ、わたしはずっと姫を夢見て心奪われていた」

 初めて出会った頃のことを思いだすと、今でも胸がときめく。

 女性陣から溜め息がこぼれた。広間にいた人々はいつの間にか全員この話に耳を傾けていたのだ。

 夜毎現れる少女。ルエキラは彼女に心を奪われ、一時期は少女のことが心の大半を占め半ば夢遊病にかかったようだった…。

「さすが、特異能力ちからをもつセルキヤ家の家督だな」

「でもそのあとが大変だったよ」

 ルエキラは言を継いだ。

「無位の男に姫はやれぬ。五年以内に最低でも正神官の位につけ、とね。王じきじきに厳命されましたから」

 それに、この婚姻が完全に王から認められたわけではない。

「当時の神官候補生のうちでもとくに劣等生だったお前に?」

 友人がちゃちゃを入れる。

「あまり大声でばらさないでくれ」

 ルエキラがかるく笑いながら答える。そのあと、ルエキラは必死に勉学に励んだ。正神官になるためにはすべての分野の知識をそなえなくてはならなかったからだ。

「本当のことだ。長年続いた神官の家系も私でおしまいかと気をもんでいたが、生きているうちに愚息が正神官になれるなどとは思いもよらなかった。そのてんからも私はこのテア姫に感謝致しますぞ」

「私も年老いた両親に孝行が出来たと感無量です」

「誰が年寄りだと? 私はまだ五十五だぞ」

 テアが最上のほほ笑みを見せた。テアの耳元で王家の象徴である紫水晶の耳飾りが揺れている。

 ルエキラは花嫁の頬に口づけた。婚礼の儀式とお披露目が終わったらなら、姫はまた王宮の部屋に戻るのだ。


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