27話 滴り落ちる黒い水

「……ルカ?」

 

 コンコンと、扉を叩く音。

 グレンだ。少し前から、紋章の気配を感じていた。

 

「……開いてる」

 

 わたしがそう言うと、音をあまり立てないよう小さく扉が開きグレンが入ってくる。

 彼はベッドの傍らにある椅子に腰掛けた。

 

「大丈夫か? 魔法が使えなくなったと聞いたが」

「ん……」

「花が枯らされたって」

「……」

 

 ――殺されてしまったあの達を思うと、鼻がツンと痛くなり、目が熱くなってくる。

 やがて頭が何か大きな物に包まれる。グレンがわたしの頭を撫でていた。

 

「!」

「……大変だったな」

「……っ、おにい、ちゃま……」

「お兄ちゃまじゃないが……まあ、今は好きにしてくれ」

「……あの人が、あの人がお花を……、あの達の水が、動物の血が。でも、誰も分からないの……っ」

「そうだな。あれは俺達にしか視えないから」

「ひっ……ううっ」

 

 グレンはいつになく柔らかい声で、わたしの背中を撫でる。

 

「お兄ちゃま……も、同じことがあった?」

「あるぞ。紋章歴も長いからな」

「魔法、しょぼいのに」

「しょぼいって言うなよ……否定しないが」

「今わたしは魔法が使えない。わたしはもっとしょぼい。お兄ちゃまよりも」

「おい……毒がありすぎないか?」

「わたしは無価値だって、司教さまが」

「司教? ロゴスという奴か。なぜ無価値なんだ」

「魔法が使えない。穢れてしまったから」

「……魔法が使えない人間はいくらでもいる。カイルもレイチェルもそうだ。あの二人は無価値で穢れているか?」

「あ……、それは、ちがう……」


 わたしが首を振ると、グレンは少し笑う。

 

「そう思ってしまう気持ちは分かるけどな」

「……魔法が使えなくなったことが、ある?」

「ああ」

「どうやって、戻ったの」

「そのうち戻った」

「そのうち……」

「ああ。だからルカの魔法もそのうち戻る。いつかは、分からないが」

「……光の塾に戻れば神様が戻してくださるって、司教さまが。わたしは穢れたから罰が下る。でも神はゆるしてくださる。魔法の力もまた与えて下さるって――」

 

「神はいない」

「!」

 

 いつになく強い口調で彼が言い放つ。

 驚いて彼を見上げると、彼の周りにある水の雫が黒く淀んでいくのが視える。

 その顔には、先程まであった笑顔もなければ表情もない。

 

「グ、グレン――」

「罰を下す神も、ゆるす神もいない。いるのは……『罰が下る』と呪詛を吐く人間だけだ」

「……」

「神がいたとして……崇め奉っても、苦しんでいても救いはない。見ているだけで何もしないし何の責任も取らない」

「え……?」

 

 ――それこそがヒトの汚いところだよ。良い感情を与えておいて、後から怒りと悲しみも与えるんだ。そんなものを与えておきながら、ヒトはその責任を取りはしない……君が苦しんでいても彼らは見ないふりだ――

 

「…………」


 先日のロゴス司教の言葉が急速に頭をよぎる。

 ヒトと神。対象は違えど、今言っていることは同じ……?

 

「……グレン」

「ん?」

「グレンは、光の、塾?」

「…………」

 

 質問の答えはない。長い沈黙のあと、彼は口を開く。

 

「半分当たりかな。……光の塾を目指しましょう という所にいた。その頃は紋章も発現していない"無能力者"だったから」

「むのう、りょく」

 

 ミランダ教の教会にある、魔法の資質を調べる"盤"。

 資質のない者は光らない。紋章保持者も、発現前は光らない――グレン自身が以前、そう言っていた。

 光の塾もあの盤を使っているのかは分からない。

 ただ、その資質のある者とない者とで"仕分け"が行われると聞いた。

 神より授かりし魔法の力。それを行使できない"無能力者"はわたし達を守るための戦士――壁として使われる。

 彼らは人間にもなれない最底辺の存在――使い捨てのゴミだと、そう教わった。

 

「あそこはただのゴミ溜めだった」

「!」

 

 偶然なのか、わたしの考えていることと似たことを言うグレン。

 彼は口を手で覆い隠す――指先から、何色ともつかない水が染み出しポタポタ溢れる。

 

「グ、グレン、あの……」

「どうした?」

「みず、が……」

「汚いのが出てる?」

「……出てる。グレン、汚い」

「ふ、ひどいな……」

 

 グレンは少し笑う――でも、笑っていない。

 どうしてだろう。脳裏をかすめるのは、あの微笑みをたたえる司教ロゴス。

 

「どうして、そんな」

「……少し嫌なことがあった。まあ、そのうち元に戻る……"きれいな水"にはならないかもしれないが」

 

 そう言いながら彼は立ち上がる。

 

「グレン……」

「ん?」

「ヒトの世で、生きるのは……苦しい?」

「……そうだな。神はいない。人間は汚いし、自分勝手だ」

「……」

 

 後ろ姿で、彼の顔は見えない。

 彼の回りを飛ぶ水、彼の指先から滴る水が彼の足元にべとりと落ちる。

 

「でも……そうじゃないのがいることも知ってる。そういう奴らのおかげで立っている」

「……」

「そもそも俺も人間だし、綺麗でもない。折り合いをつけて生きていかなければいけない」

 

 そのまま彼は扉を開けて出ていく。

 彼の足元に落ちたヘドロのような水。

 湖面のように揺れるそれはずるずると人の形になり、やがて彼の影に溶け込んでいった――。

 

 

 ◇

 

 

 夕方。少し具合がよくなったわたしは、みんなと一緒に食堂でごはんを食べた。

 

 ジャミルと久しぶりに会った。

 まだ少し具合が悪くあまり食べられなかったけど、食の神の作るごはんはやっぱりおいしい。

 グレンも「さすが食の神」なんて言いながらもりもり食べていた。

 ごはんを食べて、レイチェルやカイルさん、みんなと話すうちに彼の周りを飛ぶ淀んだ水は少しずつ鳴りを潜めた。

「そのうち戻る」という彼の言葉通りだ。

 

 ――それならさっき彼の影に溶け込んだあの水はどうなったのだろう。

 黒く淀んだ水――小さいけれど、人の形をしていた。

 ……あれは彼の心?

 悲しみ、怒り、憎しみ――あまり心が分からないわたしには複雑すぎる。

 

 彼をジャミルのように闇に引きずり落とそうとしている?

 でも、かつてジャミルを取り巻いていた闇の気とは違う。

 

 ずっと彼を見張っているのだろうか。

 何かを訴えているのだろうか。

 わたしには、分からない――。

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