第1話 物語のはじまり

 夜の闇を黒いバイクが疾走していた。

 屋敷から目的の物を手に入れたミッシェル・ナイトだ。

 追って来る者はいなかったが、念の為にいくつかの路地をランダムにすり抜けて追跡を撒く行動をしていった。

 こうして彼女は、余計な時間をかけた走りを続けながらアジトに向かっていた。


 少し背中に違和感がある。

 どうやら逃げる際に撃たれた何発が残っているようだ。

 いつもなら傷の治癒はもっと早いはずだった。それが長引いているのは血清の効果が切れかかっているからだろう。

 “血清”は彼女が人間でいる為の命綱だった。効果が切れればミッシェル・ナイトは血の渇望に苦しむ事になる。

 それは御免だ。

 逃走の十分時間かけた。ミッシェル・ナイトは隠れ家に急いだ。


 街の中の豪華なマンションにたどり着くとバイクを降りた。

 ジュラルミン製のスーツケースを持ってマンションのエレベーターの前に立つ。セキュリティー用の監視カメラが彼女に向けられていたが、その姿は映し出さない。

 彼女の住むマンションのセキュリティーが厳重だ。エレベーターでさえ、暗証番号を押さないと乗ることはできない。面倒ではあったが、そのおかげで侵入者を制限できる。ピザのデリバリーでさえも一階に備え付けられた共用インターフォンから住居者の許可を得なければならない。面倒だったが、彼女がこのマンションを選んだ理由でもあった。

 エレベーターに乗ると最上階のボタンを押した。

 到達するには少し時間がかかる。その間にミッシェルは、自分の“レッドアイ”が通用しなかった警備員の事を思い出していた。

 稀に彼女の能力が通用しない人間がいる。

 強固な意志を持つ者や、潜在的、あるいは自覚的に特殊能力を持つ者だ。彼は一体どちらなのだろう?

 それに少し可愛い……

 そんな事を考えていると到着したエレベーターの扉が開いた。

 廊下に出ると彼女はケースを持って自分の部屋に向かった。


 部屋に入ると早々に血のついたシャツを脱いだ。

 銃弾は貫通していて取り出す手間をかけずに済んだ。

 凝固した血液を払って、指で触れてみると傷口は治癒していた。押さえても痛みは感じない。

 銃弾に当たれば激痛ではないが痛みも多少感じるし、血も出る。

 高い治癒能力を過信するのはよくないなと彼女は思った。

 時計を見ると約束の時間にはまだ少しある。

 ミッシェルは、新しいシャツを引っ張り出すと着替えを始めた。

 ボタンをはめているとインターフォンのベルが鳴った。カメラの映像を見るとサングラスをかけ男が立っている。

 約束の相手だ。

「いいわよ」

 許可を受けてエレベーターに乗り込んだサングラスの男はしばらくすると、部屋の前までやって来た。

 ここまではピザの宅配と同じだが、違うのは渡されるのはミックスピザではなく、黒いアタッシュケースであった。

 扉を開けると男はミッシェルに持っていた黒いアタッシュケースを差し出した。

 彼女は、それを受け取ると交換に奪ってきたケースを手渡す。男はケースを受け取ると何も言わずに去っていった。

 これで仕事は完了だ。


 ソファに座り、ケースを開けると中には数本の血清入のアンプルが入っていた。

 吸血鬼である彼女が血への渇望は抑えられるのはこの血清のおかげだった。

 血清は彼女が“人”でいられる為の大切な命綱なのだ。

 もし血清がなければ彼女は、生きるために血を摂取することになるだろう。

 それは吸血鬼としては、正常なことだったが彼女には耐えられない事なのだ。

 だから、こういった危険な仕事を受けるのだ。

 人であり続けるために。


 注射器を取り出して準備しているとスマートフォンの着信音が鳴った。

 相手の名前はでない。知らない番号だ。

 彼女は電話に出た。

『受け取ったかい?』

 声には聞き覚えがあった。仕事の仲介者だ。

「ああ……」

『良い手際だったらしいな。さすがだ』

「私の眼で操れない相手がいた」

『君のレッドアイが? それは興味深い』

「おかげで何発か銃弾を喰らった。そういった情報は事前に欲しかったわ」

『“レッドアイ”が通じない相手がいるとは我々も知らなかった事だよ。そもそも、その稀有な能力を我々には照査できる術がない』

「わかった、信じる……血清は確かに受け取ったし、もう切るわよ」

『その前に次の仕事の依頼をしたいが』

「あまり気が進まない」

『珍しいな』

「そういう気がするのよ」

『それでも、話だけでは聞いてくれないかな?』

「……言って」

『ある人物の護衛だ』

「ずっとは護衛対象についてられない。私には時間的な制約がある。護衛は不向きな仕事だわ。知っているでしょ?」

『そこまでは望まない。護衛は別のチームがメインでする。君にはそのバックアップをして欲しい』

「バックアップ?」

『彼らに対処できない相手への対応が主な任務となる。もちろん、チームで対処できれば君の出番はないわけだが、どうだい? もしかしたら楽な仕事になるかもしれないぞ?』

「……とりあえず内容は聞くわ」

『さすがは君だ。資料は今送ったよ』

 ノートPCのEメール着信音が鳴った。

 Eメールに添付された画像を開いてみるとひとりの少女が写っていた。

 グリーンの瞳が印象的な髪の長い少女だった。

 肌は雪のように白く、顔立ちも美しかったが、何故か、妙な違和感を感じさせた。

『両親は、“オブピリオン”というハイテク企業のCEOだ。ああ、ところで“オブピリオン”は知ってるかな?』

「東ヨーロッパ最大のハイテク企業。ロシアや中国との結びつきも強い」

『そんなところだ。で、話に戻るが彼女が狙われているんだ』

「相手は?」

『不明だ。競合相手か、半テクノロジー活動家なのか。だが何故かクライアントは、君をリクエストしてきたんだ』

「私を?」

 CEOである彼女の両親の画像を見なおしたが見覚えはない。

『知り合いかね?』

「いや……覚えはないね。それも調べはついているんじゃないの?」

『ああ、もちろんだ。しかし君との接点はなかった。もしかして我々の知らない事実があるかもと思って念の為、訊いてみた」

「知らないね」

『わかった、信じよう。それよりどうだい? 依頼は、受けてもらえるかな?』

 ミッシェルはPCの画面に映る少女の姿をもう一度確認した。

 彼女の姿から受けるこの奇妙な感じは気になっていたが、同時に興味もそそられていた。そしてその理由が知りたいとも思っていた。

「わかった。仕事を受ける」

 ミッシェル・ナイトはそう答えた。

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