第1720話 乗り移った影

「はぁっ、はぁっ、はぁっ!!」


 本来であればこんな距離を走ったくらいで息切れをするような、軟弱な身体をしていない鬼人の殿鬼だが、恐怖に支配されて、無茶苦茶な呼吸を起こしながら全力疾走をしたせいか、その場に崩れるように壁に背を預けると、入り口の方を必死に睨みつけるのだった。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!! た、た、助かった……?」


 いつもの堂々としている姿はどこへやら、鬼人の殿鬼は震える声を上げながら、誰も入ってこないかと洞穴の入り口の方に、おっかなびっくりと視線を向けるのだった。


 数秒程、じっと息を殺して動かずに視線だけを外へと向けていた殿鬼だが、そこでようやく一呼吸つくと同時にゆっくりと手を地面について、這うようにこっそりと洞穴の外へと顔を出す。


「ひっ!?」


 しかし次の瞬間、自分が走ってきた方向とは別方向から戦闘の爆音が響いてきた事で、殿鬼はその場で立ち上がって慌てて洞穴の奥へと駆け始める。


「ひ、ひぎゃあっ!?」


 しかしそこで何やら顔に当たる感触と、カサカサという音が耳に入ってきた事で、殿鬼はその場ですっ転ぶのだった。


「いっ、つぅっ……! な、何だよこりゃ!!」


 そして地面に散らばっているを殿鬼は手に取ると、驚きの声をあげる。どうやら先程の顔に当たった感触のモノは、この紙の札のようであった。


 殿鬼は手に取った札をまじまじと眺めていたが、ふと視界の先の天井付近にも手に持っているモノと同じ紙の札が、びっしりと糸で繋がれて括られているのが見えた。


「こいつは、いったい……?」


 札には何やら文字が書かれてあるが、何を書かれているのかまでは分からない。しかし何処かで見た事があるような気もして、少しだけ殿鬼は恐怖心を和らげるように頭で思案する。


「あぁ! 何処かで見た事があると思えば、こりゃ人間共がよく使う札じゃねぇか」


 どうやらそれは『妖魔召士』達が契約を交わした妖魔達に用いる時に使う『式札』と、何やら瓜二つだったようである。


「何でこんなとこに、こんなモンをびっしりと吊るしてやがんだ?」


 殿鬼は身体を起こして立ち上がると、自分がぶつかった事による衝撃で外れた札を手に持ったまま、ふいに洞穴の奥に視線を向けるのだった。


――?」


 しかし急に洞穴の奥を見ている目が霞み、ぼやけて何も見えなくなってしまう。


 慌てて殿鬼は札を持っていない方の左手で目を擦り、そしてふと顔を上げると目の前に真っ黒の影のような存在が、自分を見下ろしているのが見えた。


「なっ!?」


 鬼人の中でも背が高い方の殿鬼だが、そんな彼が見上げる程にその黒い影は背が高かった。


「な、なんだっ、てめっ……――、ぇっ!?」


 その黒い影の顔が笑ったかのように見えた瞬間、声を出そうとした殿鬼の口の中に、その黒い影が入り込んでくるのだった。


「!!」


 不気味な黒い影が自分の口から侵入してくる事による恐怖心を感じた後、その何者かに内臓を突かれているような奇妙な感覚を覚えて、最後には激しい激痛と共に殿鬼は気を失ってしまうのだった。


 …………


 洞穴の中であまりの激痛に耐えきれずに白目を剥いて倒れた殿鬼だったが、やがて虚ろな目を浮かべながら体を起こして立ち上がり始める。


「くっ、くひひひっっ!! やったぞっ……! 俺はようやく自由を手にしたのだ!」


 鬼人の殿鬼であった身体に入り込んだ影は、吊ってある札を見ながら邪悪な笑みを浮かべながらそう一言告げると、そのままゆっくりと札の『結界』から逃れるように洞穴の入り口へと歩き始めていった。


 そしてその影は洞穴を出て外に出ると、ゆっくりとした足取りのままで森を出る。そして殿鬼が逃げ出したシギンのいる方角を一瞥すると再び独り言ちる。


「先程まであの辺で戦闘を起こしていたようだな。この『魔』の残滓には覚えがある。人間の妖魔召士のものだな……? というよりこれは『卜部官兵衛うらべかんべえ』のものか……?」


 殿鬼に乗り移った影は、シギンの居た場所から『魔力』の残滓を感じ取ったようであるが、その口からはシギンとは違う別の妖魔召士の名が出るのであった。


「いや、まだ私にはこの身体の整調が必要だ。再び忌々しい卜部の奴に見つかり封印をされては面倒な事になる。ひとまずは先程の洞穴に戻り、代用を作る事から始めようか」


 殿鬼に乗り移った影はそう独り言ちると、再び踵を返して森の中へと戻って行くのであった。


 ……

 ……

 ……

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