第10話:神に守られし緑の社と、あとがきとしての物語

「暑いね、トワ」


 足元のアスファルトはところどころヒビ割れ、その隙間から黄土色の土壌がのぞいていた。平坦なはずのアスファルトは地面から持ち上げられ、膝丈近くまである雑多な植物が覆い茂っている。正面に見える雑居ビルにも緑の植物がまとわりつき、壁面に掲げられた広告看板を侵食していた。


 外の空気を吸ったのはどれくらいぶりだろう。ツグムはそう思うと同時に、そもそも屋外と屋内を隔てる境界線といったものが、この世界に存在するのかという疑念に捕らわれる。環境と呼ばれる空間を、人工的なものと自然的なものに分けて考えてしまうのは人間特有のクセのようなものかもしれない。


「水、飲む?」


 水の入った水筒はそれなりの重量だ。列車から降りてから歩き通しで、ツグムでさえ足に鈍い重さを感じていた。


「ごめん。水筒、重かったよね。持つよ」


「大丈夫。でも少し疲れたかな。この先で休もう」


 小高い丘、木々が生い茂る平地、あるいは河川。あるがままの地形や空間を、街道や線路、建造物といった設計で区切っていく。しかし、たとえ大地と空間が乖離しようとも、硬いアスファルトを押し上げてまで光を求める植物の生命力と、人の手によって作り上げられた秩序の崩壊によって、設計と自然は互いに入り混じっていく。変化とはそうした場の均衡を保とうとする力である。そういう意味では均衡を乱すことこそが、人間の生活の本質的な在り様なのかもしれない。


 かつては街中に溢れていたであろう記号や装飾たち。その意味を読み解くリテラシーは人間社会の物語として文化を生み出してきた。しかし、いつしか街中は機械が生み出す無機質なフォルムへ変わってゆく。装飾や記号が消え行く街で、大きな物語もまた消滅してしまった。今では誰の記憶にも存在しない。人が消えた空間に、思考の外部などあらかじめ存在しないのだから、今目に見える景色は、その全てが均衡の中で放たれる安定的なメッセージなのかもしれない。


「生活の痕跡すらない……。いったい何がこの世界をこんなふうに変えたんだ」


 街の奥に進むにつれて、ツグムは世界の変わりように、強いめまいを覚える。隣を歩くトワは相変わらず何も語らない。ただ、語ることを明確に拒否しているわけではないことは、ツグムにもよく分かっていた。おそらく、彼女も現状を説明し尽くすだけの言葉を持ち合わせていないのだろう。あるいは彼女が歩む先にその答えがあるのかもしれない。いずれにせよ、ツグムは彼女の隣を歩こうと、そう強く思っていた。


 かつての住宅街を抜けると、路地奥に朱色の鳥居が見えてくる。その両脇には立派なケヤキが植えられていた。樹齢は数百年といったところだろうか。太い幹にはウロコのような樹皮が何重にも重なって巻き付いているように見える。この街の出来事を全て見届け終えたかのように、今はただ静かに葉を揺らし、風の音を奏でていた。


 鳥居をくぐると、正面にそびえるのは拝殿だ。小さな敷地ではあるが、かつては立派な社殿を有する由緒ある神社だったのだろう。


「ここは涼しいね。あ、水筒ごめん。持つよ」


「平気だから、気にしないで」


 社殿を支える中央の柱は朽ち果て、木造の屋根は大きく陥没していた。人知れず崩壊していく土地の守り神。トワは拝殿へと続く苔むした石段に腰を下ろした。


 リュックから水筒を取出した彼女は、その蓋に水を注ぐと、ツグムに手渡した。揺れる水面には境内を取り囲むケヤキの木の葉が写ってる。ツグムは水面に反射するモノクロームの景色をしばらく眺めていた。


「トワはここの生まれって言っていたよね」


「ええ。この街はわたしの街」


 ツグムは手に持った水筒の蓋に口をつけ、一気に飲み干すと瞼を閉じて風の音に耳を澄ませた。


「あのさ、なんとなく懐かしい感じがするんだ……この場所」


 懐かしいというほど昔の出来事でもないのかもしれない。それはつい昨日のことかもしれないし、一昨日のことかもしれない。ずいぶん前、と言ったときの ずいぶん を定義づける言葉をツグムは探していた。


「誰か来るわ……」


 参道をこちらに向かってくるのは一匹の白猫と白髪の老女であった。白猫はしなやかな動きで音もなく二人に近づくと、トワとツグムの間に座った。にゃお、と声を上げ、大きなあくびを一つしながら前足を腹の下にしまう。トワは丸くなった白猫の背をゆっくり撫でた。猫は三角の耳をパタリと寝かせ、心地よさそうに瞳を閉じる。


「その子が誰かに体を触らせるのことは、とても珍しいことだわ」


 女性はしゃがれた声でそういうと二人の前に立ち、崩れかけている社殿をじっと見つめた。穏やかな風が彼女の真っ白な髪を揺らしている。白猫が小さな寝息を立て始めた。


「あなたは……」


「私が誰なのか……そうね。そうしたことも全てはもう無意味になってしまった……。世界も何もかも」


 街の景色が変わることは一つの時代の終わりを告げることと同じだ。たとえば、ランドマークと呼ばれるような都市の構造物が解体されることは、街の消滅、あるいは時代の消滅ともいえる。しかし、たとえ街の景色が様変わりしたとしても、色褪せずに残り続けるものがある。それは風景そのものから放たれる無言のメッセージであり、無限の価値を含むもの。眠らない人たちに共通しているのは、意味や価値に対する圧倒的な絶望なのだ。


「今、目の前にあるのは確かな現実だと思うんです。たとえどんな世界であろうとも、風景の側に宿る意味に耳を傾けることは、今もこれからも必要かなって、僕はそう思います」


「耳を傾ける……。そうね。たまにはそうしてみようかしら。ところで、あなたたちはどこに向かうの?」


 女性の問いに、猫をなでるトワの左手が止まった。


「トワ……」


 まるで何かを警戒しているかのように、彼女の表情はこわばっていた。


「あなたは用心深いのね。でも大丈夫。ここにはそう簡単には入ってこれないから」


 トワは相変わらず無言のまま、深い眠りに落ちている白猫の背中を見つめていた。


「あなたは眠らないんですか?」


「あの人が眠らない限り……」


「あの人?」


「ええ。あの人はきっと今も大切な仕事をしているはずなの。ここにはね、あなたたちにとっては不思議なことかもしれないけれども、小さな図書館があったのよ。そう、あったの。あったのよ……。なぜ忘れていたのでしょう。とても大切なことなのに」


 女性は何かを回想するように空を見上げると、ゆっくり瞳を閉じた。


「入口の端末でね、本の名前を入力すると、いえ、もちろん作者のお名前でもいいの。そうするとね、書棚から緑色のアームが本を探し出してきて、持ってきてくれるのよ。あの人が読み続けてきた本たち。その本に書かれた言葉は……」


「言葉は、言葉はどうなったのです?」


「ああ……、あの人は今どこにいるのでしょう。神を失ったあの人に残された唯一のもの……。今も守り続けているでしょうか」


 ツグムはトワの瞳を見つめる。トワは黙ったまま小さくうなずいた。二人にはなんとなく分かっていた。新宿の焼却処理施設で本を燃やしていた初老の男性が目の前の女性にとってどれだけ大切な人だったかとうことを。ツグムはリュックから茶色のハードカバーの本を取り出す。タイトルのない表紙、そしてあとがきのない本。


「今でも大切にされていました。この本をあなたに」


 ツグムから手渡された本を、震える手で受け取った女性は、ゆっくりと一ページ目を開く。そこに刻まれた文字を見据えたまま、かすかな嗚咽を漏らし、その場にしゃがみんで肩を震わせて泣いた。


「僕が自分を見失いそうになったときに、この本が導いてくれました」


「ありがとうございます。ありがとうございます……」


 女性はただ泣きながら感謝の言葉を繰り返していた。


「ツグム、きっと、もう大丈夫。行きましょう」


 大切なものが奪われ、二度と帰ってこないのだとしても、そういう悲しみや苦しみと向き合うことで、喪失した大切なものが心のなかで確かに存在していると感じられる。


「何もかも忘れることが幸福だと思っていたよ。苦しいこと、悲しいこと……。でもそうではないんだね」


「ええ。幻想は苦しみや悲しみのリアリティーを忘れさせてくれる。だけれど、それは偽りの幸福感よ。あらゆる悲しみも、それを物語にするか、その物語を語ることでしか乗り越えられないの。その物語こそが、あの本のあとがきなのかもしれない」


 石段で丸くなっていた白猫が、背筋をぴんと伸ばして鳥居を抜ける二人の姿を見送っていた。

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