未来のかたち


 死んだ祖父から、天体望遠鏡を譲り受けることにした。


 星に興味があったわけではないのだけれど、なんとなく、こいつがある限り、僕の中の祖父が風化してしまうのを、限りなくゆるやかにできるのではないかと考えたのだ。


 これまでは意識にのぼっていなくとも、無意識的には祖父の存在を認識していたはずだけれど、彼がこの世ならざる住人となったからには、その限りではなかろう。


 幼いころに僕の頭をやや乱暴になでた節くれだった手や、時折見せた苛立たしげな表情と口調の激しさ、そして、老成した慈しむような眼差し。


 それら記憶ははたして、どこに収められてしまうのか。


 思い出すこともできない忘却の果てへと押しやられてしまうのではないか。

 そのことが故人に申し訳が立たないような気がして、遠くできらめく過去の光を眺め渡す筒を、僕は譲り受けることにしたのだった。


 陳腐な言い回しかもしれないが、人は二度死ぬと言う。

 肉体の死と、忘れさられることによる死である。

 僕は二度目の死から、祖父を守りたかったのかもしれない。


 ど素人に天体望遠鏡を扱うのは難しかったけれど、説明書片手に四苦八苦していくうちに、なんとか形にはなってきた。


 年月の経過は残酷に祖父の存在を消し去ろうと躍起になっていて、僕自身にその牙を向けてきたなと、ふと思いいたれば、僕は天体望遠鏡を車につみこみ、健脚であったころの祖父がよく赴いていた新田山の山頂を訪れた。


 子どもからお年寄りまでが登れる小高い丘のような山は、深夜ということもあり、ひと気はなかった。


 ほのかでなよかやな糠星の輝きを眺める。


 おそらくは祖父もこうしていたのであろうなあと、少しばかりセンチメンタルに。

 そして、こうして故人に縛られて、僕は延々と同じ場所で足踏みを繰り返すのだろうか、と少しばかりシニカルに。


 祖父を二度目の死から救いたいなどと口当たりの良いことを言いながら、僕は結局、未来に希望をもてていないのかもしれない。

 やりたくもない仕事では、下げたくもない頭を下げ続け、恋人とはもう一ヶ月は会っておらず、このまま自然と関係が消滅しそうな気さえする。


 祖父という存在を寄りしろにして、僕は失ったものと、これから失うであろうものから目を逸らすために、こうして意地になって天体望遠鏡をのぞきこんでいるのではなかろうか。


 はるか過去の、今ではもう存在すらしていないかもしれない光に、僕は安堵をもとめているのかもしれなかった。


 自虐的になりすぎたろうか、と苦笑しながら、僕は天体望遠鏡を片づけにかかった。


 そこでふと思い立ち、対物レンズに瞳を近づけた。

 本来であれば、対物レンズと対物鏡によって天体の光を集めて、接眼レンズで拡大した天体像をみているわけなので、逆から覗いたって、何も見えるはずはなかったのだ。


 けれど、どういうわけか僕は幻をみた。


 壮年の男性と、品の良さを醸し出す女性がテーブルを挟み向かい合って座っており、その隣にはまだ小さな子どもがちょこんと行儀よく座っていた。


 どうやら朝食をとっているらしい、よくある平和な日常の風景だ。


 まばらな白髪と、年相応の皺を刻みつけたその男はこれから10年くらい経た僕と並べば、瓜二つであったかもしれない。


 過去の光を見る装置を逆からのぞいたために、未来の光景が飛び込んできたのだと言うと、それはあまりにロマンチストに過ぎるような気がする。


 その光景は、瞬きの一瞬のうちに、おぼろにかき消えた。


「もしかしたら」


 僕は天を仰いだ。


 空には無数の星がきらめいている。


 亡くなることを天に昇るともいうが、もしかしたら、祖父があちらからのぞいているのかもしれない。

 星明かりなんてはるか彼方のものがみえるのだから、天から望遠鏡を片手に、不肖の孫を見ていたっておかしくはないだろう。


 そして頼りない孫に喝を入れるべく、先ほどのような光景を見せてくれたのではなかろうか。

 未来はそれほど悪いものでもないよと。


 僕は携帯を取り出し、ある番号を呼び出してコールした。

 深夜ということもあり、相手は不機嫌さを前面に押し出した声だった。

 これまで連絡をとらなかったことの不平なんかも、込められていたかもしれない。


「ごめん、こんな深夜に」と僕は言った。「でも、どうしても話をしたいことがあったんだ」


 白髪の交じった男は僕に似ていたけれど、もう一人の女性は、僕のよく知るひとにとても似ていた。

 ワインが熟成してくように、歳月というと石に摩耗させられず、たおやかさや美しさを磨きあげていけば、きっとそっくりになるに違いない。


 息子は目元が母親に似ていて、頑固そうな口元は、もしかすると僕や祖父と似ていたのかもしれない。


 それはなんて淡く儚い、夢のような未来のかたちだろう。

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