第2話 千代さんと僕の春の日常
その日を境に、女学校の帰りだろうか夕方近くになったら、千代さんが訪れるようになった。
あれはまだ、千代さんが来るようになってすぐだから、四月になったばかりだと思う。千代さんが、小さな布袋いっぱいに入った何かを僕の所に持って来たのは……。
「伸也さん。このお庭に種を植えて良いかしら」
「構わないけど、何の種だい?」
「内緒。でも、特徴のある花だから、すぐに分かっちゃうわね」
そう言って千代さんは、花壇に入って種を植え始めた。延々と同じ動作を続けている。もしかしたら、その袋いっぱいの種を全て植えるつもりかい?
「大変そうだね。手伝おうか?」
しゃがみ込んでる千代さんの肩越しに声をかけた。
千代さんは、驚いた様でバランスを崩して尻餅を付きかけた。
とっさに千代さんの身体を支えて、なんとか尻餅を付かせずにすんだのだけど、抱きしめた感じになってしまった。
その瞬間、良い香りがしてきた。顔が熱くなる。
「ご……ごめん」
僕は、慌てて手を離した。僕が声をかけてしまったばっかりに、本当にごめん。
「ありがとう。もう少しで尻餅付くところだったわ」
千代さんは、あまり気にしていないようで、内心ホッとする。
「千代さん。何か付けてるの?」
「え?」
「あ……なんだか、良い香りがしたから……今まで、気付かなかった」
「耳の所に練香を付けてるの、内緒で。淡い香りだから、周りに気付かれないと思って……」
千代さんは、ふんわり笑って言った。
ああ。それで……。その淡い香りが、届くほど僕は近付いてしまったんだ。
千代さんは、何でも無い風にいるのに、僕はなんだか気恥ずかしかった。
その後も庭を見て、二人でお茶を飲んで、千代さんがその日にあった事をおしゃべりする。そんなたわいも無い日々が続く。
ただ、千代さんは必ず僕の家で宿題を済ませて帰っていた。
だけど、よくよく考えてみたら年頃のお嬢さんが、こんなに頻繁に寄り道をしても良いものだろうかと、気になりだした。
「千代さんは……その、毎日のように寄り道をして何も言われないの?」
そんな僕の問いかけに、一瞬キョトンとした顔をして言う。
「大丈夫よ。今までだって喫茶店とかお友達と寄り道して帰っていたもの。
それに、宿題まで終らせて帰っているのよ。図書館にでも行ってるって思われているわ」
なかなかの策士だな。それで、宿題を必ずここで終らせていたのか。
千代さんは、僕の方を上目遣いで見て言う。
「迷惑だった?」
「いいや、全然。僕は退屈しているからね。君が大丈夫なら僕はかまわないよ」
本当に、ずっと居て欲しいくらいだ。
ある日、もう春も終わりになる頃、本宅から母がやって来た。
「お久しぶりです。お母さん」
僕は深々とお辞儀をする。母と言っても、年に数回会えば良い方だ。
身近にいる他人より、僕にとっては遠い存在だった。
今日は、使用人も何人か連れて来ている。僕は、母をサロンの方に案内した。
こういうときは、嫌な事しか起きない。
「伸也さんも元気そうでなによりです。大学からは無事三年生に進級出来たと連絡がありました。あと一年精進なさいませ」
「ありがとうございます」
もう、春も終わり夏が来る頃だ。今頃言う言葉ではないだろう、進級の話など。
「伸也さん」
「はい」
「あなた、松平家の娘を連れ込んでいるのですって?」
ああ、本宅に知られてしまったか。
「連れ込んでいるなどと、人聞きの悪い。
彼女は、まだほんの子どもです。珍しい紅茶と西洋菓子を食べに来ているだけですよ。ああ、少し勉学を教えております」
なるべく、穏やかに……僕はそう意識して母に告げた。
「女に学問なんて……とは、思いません事?」
「まさか。人は学べるうちに学んでおく方が良いのです。
それに、松平さんは聡明ですぐに理解して下さる」
母は、大きく溜息を吐いた。
「松平の所には、借金があります。
大方、大戦(※)中の好景気に乗って無茶な商売をしたのでしょう、借金の申し込みすら断られている状態とか」
僕は、少し考え込んでしまった……どの程度の借金なのだろう?
「伸也さん」
名前を呼ばれて、母の方を向いた。母の前で考える素振りをするなんて、とんだ失態だ。
「桜井家は、松平の借金を背負うわけにはいきませんよ」
僕は内心呆れてしまった、表面は穏やかな顔を作っていたけど。
「どうして、そう言う話になるのです。僕と松平さんはそんな関係ではありません。彼女に失礼でしょう」
「松平から打診があったのですよ。伸也さんがうちの娘を気に入って下さっているのなら……と。
今持ち上がっている資産家との話を無かった事にして、こちらを優先したいと」
なるほど、
「桜井家は、松平千代を認めません。
伸也さんには、大学卒業後しかるべきところの令嬢を娶って頂きます」
「もちろん。僕に異存はありませんよ」
その為に、こんな病弱な僕でも、桜井家から追い出されていないのでしょうから。
言う事だけ言って、本宅から来た母は、また車に乗って戻って行った。
※ 第一次世界大戦
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