花鎮(はなしずめ)~ハルピン1945

橋本ちかげ

第1話 終焉のハルピン


 今に、愛音あいねが死んだら。

 鎮めの花と花と、この御国の土に、どうぞうずめて下さいましね。

 わたしの愛するお兄さまが、わたしの大好きだった姉さまと、健やかに過ごせますように。

 どうか、どうか、お願いです。


「兄さま」


 手紙の中で響くあの声と、驚くほど同じ匂いのする柔い声音に、私は思わず、背筋を震わせた。振り向くと、ベッドの上で最愛のもう一人の妹が、蒼褪あおざめた唇を綻ばせている。

日本ヤポンでは、こう言いますか?」

そうだダー。よく分かったね、碧音あおね

 私は彼女に判らないように、そっと息を呑んだ。

「さっき、お湯を湧かしてくれた男の人に聞きました。兄様ブラート…わたしのシストラは、ニイサマ…そう呼ぶのですね?」

「そうだよ」


 ロシア語で根気よく呼びかける。私はベッドの上からようやく身を起こした少女の身を、慎重に労わる。頬に貼りついたその髪を指で掻きあげると、かなり汗ばんでいるのが分かった。


 愛音と同じ、深いみどりの色をたたえた瞳はもはや視えず、包帯に封じられている。私にとってそれは身を切られるように辛く、残酷でありながら、唯一の小さな慰めでもあった。



 昭和二十年八月十五日、大東亜戦争だいとうあせんそう終わる。



 ポツダム宣言調印により、大日本帝国すべての軍勢に武装解除が通達された。ほどなく満州国に駐屯する関東軍にも、その命令が到着する。


 しかし関東軍はその数日前から壊滅の一途にあった。さる九日、不可侵条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍が、大軍を率いて侵攻してきたからだ。


 ここハルピンは、瞬く間に占領された。関東軍は崩壊し、満州国のすべての日本人は、捕虜同然となった。


 駐屯するソ連軍の略奪と暴行が横行し、銃声と悲鳴が絶えない日はなかった。だが国際法上非道な市街地戦闘や暴行の理由は、ソ連側にしてみれば決して恣意的原因ばかりではなかったのだ。


 ソ連軍は対ソ工作に暗躍していたハルピン機関の関係者の捕縛に乗り出していた。帝政ロシア崩壊後、我が満州国は、その亡命移民たちの受け皿になって動いていたのだ。


 彼らにとっていわば政治犯であるロシア人たちと私たち日本の情報工作員の身柄を確保するために、非常行動を辞さない『スパイ狩り』に乗り出した。


 主導したのはソ連国家保衛委員会、防諜機関『スメルチ』。


 密草葵ミツクサマモル


 とうに忘れた私の本当の名は、彼らが作成した捕縛リストの中では間違いなく『生死問わず』の欄に入っているはずだ。


 対ソ工作に興味を持ったのは、父の影響だ。


 大陸に駐屯し、数えきれない愛人と現地妻を持ち、本土の母をやきもきさせてきた男はある日、ロシアの血を引く小さな妹を連れて帰ってきた。


 緑色の澄んだ目と、真新しい赤銅しゃくどう髪色かみいろを持つ痩せぎすの女の子だった。日本語が満足でない本人の代わりに父は愛音と、名前と字だけ書き送ってきた。


 薄く青い血の脈を浮かせた、そばかす混じりの白蝋のはだえの少女は、いつもうつむいていた。生まれつき心臓の弁膜に障害がある少女は籠もりがちで、話し相手は年の離れた兄の私しかいなかった。


 ある日彼女は私に、秘密を打ち明けるようにして言った。


「…わたくし、一人ではないのです」


 愛音には、双子の姉がいた。


 父は病弱な愛音の方を実家へ遣わし、現地でもう一人の娘と白系ロシア人の現地妻を守ることに決めたのだ。


 特務機関に入る道を択んだ父は大陸で姿をくらますと、孤独な愛音の身柄だけを押しつけて、私たち家族を体よく切り捨てた。まだ陸軍士官学校にいた当時の私は、母とともに父の逐電を随分、恨んだものだ。


(父を追って関東軍に入った私が今やその立場にいる)


 まさに皮肉だ。

 苦労してロシア語の専門家になり、ようやく関東軍に入り込んだものの、父の消息は尋常な手立てでは、見つけることは出来なかった。


「父上が入り込んだ地獄に、自ら踏み入る勇気はあるか?」


 困り果てた私に、ハルピンで声をかけてきた人間がいる。久遠くおんと言う、白系ロシアの亡命貴族を母親に持つ、怪しげな特務機関員だった。


「幽霊にならねば、幽霊の正体は見えん」


 結局は私も父と同じ、一方的で勝手な人間だった。

 昭和十九年(一九四四年)五月、私は死んだ。


 満州五○二部隊の演習中の事故と言うことにしてもらった。虚報であったとは言え、愛音がどんなにそれを悲しむか、そんなことを考えもせずに。


 こうして私は久遠の言うハルピンの秘密機関に属した。具体化を帯び始めたソ連参戦を水面下で防ぐための、非合法活動機関だった。


(もう少しだよ、愛音)


 私の目はこのときすでに曇っていた。

 希望の甘い蜜は、すでに絶望を醸して腐り果てていたと言うのに。


 昭和二十年五月の終わり、私は仮の軍属の身分を使い、帰国した。

 愛音に会うためだ。この十年を国際情勢の研究と諜報活動に費やした私はやっと、独り日本に残された彼女が、誰より心配なことに気づいた。


 本土空襲が迫り、爆撃は在日外国人も多い横浜の街にも及んだ。外聞を恐れた母親は、愛音を厄介払いに、奈良の実家に疎開に出したのだった。


 外国人嫌いの伯母夫婦おばふうふに、彼女は除け者にされていた。白人の血が混じった愛音の外聞が悪いからと、土蔵に軟禁されていたのだ。


 折檻せっかんと称して愛音を暴行しようとした義理の伯父を動けなくなるまで殴り続けてやった。市会議員の伯父は、私の顔をみて腰を抜かした。幽霊でも見たかのようだった。


 町火事を報せる半鐘と、空襲警報がせわしなく鳴っている。

「もうあかん、逃がしてくれえ」

「だったらなぜ、愛音ひとりを逃がさなかった」

 私は軍靴で前歯を踏み折ってやった。

「違うッ違うのや!」

 強欲な伯父は、二重になったあごを振り立てた。

「愛音はあかん!医者が言うてんねや。もう手遅れなのやッ」

 私は、黙ってその口に銃口を押し込んでやった。いつしか目の前の男に私は、本気で殺意を抱いていた。

「兄さまっ、やめてください!」

 愛音の声がした。白い夏椿を染め抜いた古い小袖を着ていた。

「だめです…やめて下さい。お世話になっている伯父様に乱暴をしないで」

 咽喉が破れるような咳をすると彼女は血を吐いて、膝から崩れ落ちたのだった。

 愛音は、すでに明日をも知れぬ命だった。空襲が来たとて、自力で逃げることもかなわない。

「だからいいのです。有事の際は、この蔵に捨て置いて下さい、と愛音が自分で申しました」

「嘘だ」


 もう堪え切れなかった。


 爆弾が降る中、私は、この子を抱きしめて泣いた。あまりにむごい嘘を、彼女が吐いていたのが分かったから。そしてそんなむごい嘘を吐かせて、彼女をここで生きさせたのは誰あろうこの私だ。そんなことに、今さらになって気づいたからだ。


 栓が抜けたように、私からすべての生きる力が失せてしまったようだった。

「教えてくれ」

 私は防空頭巾で彼女を守りながら、尋ねた。

「今の私なら君を、父上のいる大陸へ帰すことも出来た。私が君だけをこの国に残す決断をしたことが、果たして本当に正しかったのか?」

「はい、もちろんです」


 業火になぶられて、白皙はくせきの頬を紅潮させた愛音の微笑みは、そこに火が灯ったようだ。

 私はなぜか、ハルピンを想った。

 冷たい闇の中、さ迷う火盗蛾ひとりがいざなう街の灯り火。


「私はいつでも、良かったと思います。主のみもとに産まれて、兄さまに出逢えて。愛音のことを、想ってくれる沢山の人に出逢えて。とても幸せでした」

 苦しくすぼまる息を堪えながら、愛音は私にそっと口づけをした。咲き初めの花びらを思わせる愛音の唇からは、少し青い花の蜜の匂いがした。




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