旅だつ朝に

智子ともこ


 寝たと思っていた妻が、ベッドで半身を起こしていた。

 夜半過ぎ。少しの憂いをたたえた無表情を、常夜灯がぼうっと照らす。寝室に入った彼を、もの言いたげな視線で妻は見やる。

 疑念と不安のにじむ視線から逃げるように目をあわさず、隣あって布団に入った。妻は身じろぎもせず、壁かあるいは宙空を見すえている。まぶたを閉じても、その気配から、石のように固まったままでいるらしいとわかる。


「ねえ」


 やがて、なにか意を決したような重みをもって、彼女は夫へ――おそらくは微動だにせず――呼びかけた。

 やや間をおいて、慎重に、言葉を選ぶように静かに、ん、と応じる。

 妻もいくらかの間を挟んで、たぶん、まさに言葉を選んで、慎重に、慎重に選びぬいたうえで、問う。



 少しだけ、ごくわずかに、言葉尻が震えていた。そうならないよう懸命に抑えて、なお足らなかった、そんな声色だった。

 ふうぅ、と息を深く、彼女はひとつ、吐き出した。


 短くて、長い沈黙。


 どう答えていいのか、返答に迷う。

 仕事がら、すばやい判断と行動が常日頃、求められている。反応のわずかな遅れが重大な結果を招き、生死をわかつ。そのような職につく人間としては失格ものの長考だった。

 うかつな返答はできないのだ。妻の言いおよんだことはまさに彼の、夫の、生死そのものだ。受け答えが拙速であってはならない。


 死を選択する必然性は彼にない。人となりからいっても考えがたかった。

 今、人生最大の苦境のただなかにあるのは確かだ。有形無形のあらがえない重圧に押しつぶされそうな日々。終わりは見えないが、死をもって脱することなどできないしその意思も皆無。夫はどこまでも、この逆境と真正面から向きあおうとする人間であることは、妻もわかっているはずだ。


 その一方で、このところ、いや、があって以来、彼の行動に腑に落ちない気配が見え隠れしているのも事実だった。


 彼はプロフェッショナルだ。不審な匂いは消し、必要とあらばなに食わぬ顔で接近し急襲する。人心をあざむくすべもひととおり修めている。ほとんど完璧に平生を装えているはずだ。

 しかし、妻もまたプロだった。

 職業的な意味あいではない。彼女は夫のような職についてはいない。昼間は近所のスーパーでレジ打ちのパートタイムに出ているだけの――その仕事は先般の事情から辞めざるをえず、現在は完全に専業主婦となっていた――一般人だ。

 だが、彼の配偶者ということにかけては右に出る者のない、一流の妻、プロフェッショナル。身内も含めて誰にも気取られることのないようよく訓練された彼の立ち振る舞いを、ささいな違和感から的確に見抜く。するつもりは毛頭ないが、もしも浮気をしようものなら、このおんなは、狙撃ライフルの銃弾のような速さで勘づくだろう。もっとも、そこに彼は惚れたのだが。


 五秒が五分にも五時間にも思える沈黙を破って、彼は言った。「おまえを泣かせるようなことはしない」


 絶対に。約束する。

 しんと静まる寝室に、静やかな低音が誓いをたてる。

 嘘も偽りもない、苦衷とまごころの吐露だった。


「どこにも行かないで!」


 非難にも似た哀願が浴びせられる。

 その胸中ともどもに室内の空気を張り裂かんばかりの悲鳴に、彼は閉じた目をあけ、努めて沈着に、蒼空そらが起きる、となだめた。


「ツヨくんを止められるなら日本じゅうをたたき起こす」


 サイドボードからスマートフォンを取り夫へ突きつける。息巻く妻の手をそのごつごつとした手のひらでやんわり押さえ、起こされても意味がわからないだろ、と苦笑い。

 生息地のレシピサイトではヘビーユーザーで知られる彼女はちょっとしたカリスマ主婦で、ツイッターのフォロワー数は五万人を超える。が、全国の奥様連中をどうたたき起こすのかも起こしてどうしようというのかもよくわからない。勢いだけでしばしば妻は空回りする。そこがまた愛嬌があるのだ、とはこの場にそぐわぬのろけか。

 彼女のアカウントが特定され休止に追い込まれたことは本当に申しわけなかった。ネットでの活動・交流は大きな楽しみ、生きがいとさえいえるほど大切にしていたのに。

 妻も、息子も、自身も、一家は大切なものを多く失った。あまりにも多くを。


「智子」

「え、なに? ――って、ちょっ……急にどうし……んんっ……」妻が鼻にかかった声を漏らす。「灯り……消し……」


 言葉をふさぐ。

 家庭内では五十五:四十五ほどで妻がやや優勢だが、寝具の上では夫がイニシアチブを取る。その荒ぶる強靭な体躯は、嵐の難破船のごとき翻弄と沈没を妻にもたらす。これは最初の夜以来、一貫した力関係だ。


 着衣と息づかいが乱れる。追及を交わそうとの安易な逃げと見透かされているだろう。だとしてもかまわなかった。

 今夜だけ。今夜ひと晩、しのぎきれればそれでいい。撤退も旧軍の詭弁を借りれば転戦か。


 


 妻の弱いところを巧みに、執拗に突いて、電撃戦による陥落をみること数度。

 妻は肩で息をし、ぐったりだ。女は男と比べて複数回の撃破に耐えるズルい――あの子が言うところのチートスキルか――体だ。

 他愛のない自身の愚痴に、小さく口端を上げる。


 ベッドサイドの時計を見る。夜明けまで数時間。妻が寝入ったのを認めて支度にかかる。

 作戦の遂行に必要なすべてはあらかじめ、横浜駅のコインロッカーに置いてある。家で準備をすればどんなに隠しても妻が察する。身ひとつで直行するだけだ。


 ごく目だたない服装に手早く着替える。妻は正体をなくしたまま、規則的に胸もとを上下させている。

 そっとベッドわきへ歩み寄り、張りつく前髪をかきわけ、額に口づけた。

 ツヨ……くん……。

 かすかな、うわ言のような寝言が、妻の口から漏れ出た。

 大丈夫。果てた彼女は朝までぐっすりだ。

 夢にうなされているのか、どこか切なげにゆがんで映る妻の寝顔に、さまざまの思いが胸を去来する。

 もう一度、額へ丁寧に接吻し、そっとささやく。「ありがとう」


 寝室のドアを閉じる。もう振り返らない。別離はしっかりと済ませたから。


 発つ前に息子の部屋を訪れる。

 ベッドの中、体を丸め熟睡する我が子の横顔をしばし、その横に座しながめた。

 タンスの上に飾られた、少年サッカーの大会で優勝したときのトロフィー。全試合で合計五点を奪った自慢の息子だ。

 将来の夢はJリーガーかユーチューバー。かなえるならぜひ前者のほうにしてもらいたいものだと願うのは考えが古いのだろうか。ネットゲームに入れ込む自身を棚に上げて。


 年齢がふた桁となり、悩みごとも出てくる年ごろだが、眠りにつく息子の顔はどこまでも穏やか。平穏無事を一身に受けているように見えた。

 現実には、悩みごとなどという生やさしいものではない、その歳の子にはあまりに重い苦難を背負わされている。

 すべての責任は自分だ。父親である自分にある。本当に、本当に、ただひたすらに申しわけがなかった。


 


 息子の寝顔を見つめ、見守り、彼は思い、請け負う。

 今よりもほんの少しだけ、より好ましい世界の訪れを。


 やがて父親は立ち上がり、子供部屋をあとにする。

 廊下を、ダイニングを、居間を、それぞれ一瞥しておく。まだひと月半しか住んでいない賃貸マンションだ。この数カ月で二回も引っ越した。思い入れは特段ない。

 それでも、と思うと名残り惜しさが湧いてくる。感傷にひたってもしかたがないとはわかっていても、つい、無為にたたずんでしまう。

 ――気持ちを切り替えろ。


「行ってくる」


 普段のとおりに、なにげないそぶりを妻子に、己に対して装って、扉を閉じた。

 戦地へ赴く兵士の眼光が、薄明の住宅地にひらめく。



 *



 早朝の横浜駅。

 人気のない朝まだきのなか、西口のロータリーにブレーキランプが灯る。停まった乗用車から複数の人間が降りた。西口前に立つ長身の男は、乗降スペースで荷物を積み降ろすその人影を見やる。


 なにごとかをしきりに話す様子がうかがえたのち、運転手とおぼしき人物は見守るように車の横へとたたずみ、ふたり、大人と子供がこちらへ歩いてきた。彼と同様に大荷物を抱えるのは、目をこすり半分眠っているかのような少し小柄の女の子と、父親ほどの歳の中年。

 最初にやってきたメンバーへ男は、おはようモグさん、と声をかける。

 少女を連れた五十がらみの男は、手にしたバッグとともに右手を上げこたえた。


「よう、不藁」



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