夜明けの夜想曲《ノクトルノ》第五番
五
とにかく、なににつけても騒々しいのだ。
やれSuicaが使えないだの、やれこれが券売機なのかだの、どうしてタッチパネルじゃないのだの、子供料金のボタンになぜカバーがついているのだの。
改札で切符の手渡しなんて初めてだの、駅員に券の端を切られて欠けた、あとで自動改札をちゃんと通れるのかだの、乗り場にホームドアがないだの。
乗ったら乗ったで、やれ電車に扇風機がついているだ、暑いだ、なぜ冷房がきいていないのだ、誰もマスクをしていないが大丈夫なのかだ、昭和の感染対策の意識低すぎて草だ。
まるで泳ぎ続けなければ死んでしまうマグロかサメのごとく、終始、葵と拓海はやいやい騒ぎたてる。始発でまばらとはいえ、周囲の視線がおのぼりさんを見るそれに感じられて、博は気恥ずかしいことこのうえなかった。
彼らと若干距離をあけて反対がわの座席に座り、努めて他人のふりを決め込む。金髪でマスク姿、黒髪だが黒マスク。一九九〇年では完全に
「あの子たちが浮かれるのも無理ないよ。空間座標では見知った土地でも、時間軸では初めてなんだし。私も半分同じようなものだから気持ちはわかる」
「それを言ったら、俺たちだって三十年ぶりの景色だ、テンションは否応にも上がる。それを懸命にこらえてるってのに」
なあ不藁、と同意を求めた右腕の――今は左がわに座していた――男は、腕組みのまま微動だにせず、ああ、とだけ短く応じた。
一見、心にもない返答に見受けられたが、彼の人となりに通じる博は、思いをわかちあっていることを理解した。
頼もしくあると同時に、タイムトラベルという極めて稀有な体験をじゅうぶんに堪能させられないことが申しわけなかった。
もちろん博とて遊び半分の心づもりはない――たとえば、
それでも、出張で多少の旅行気分をいだく程度の楽しみを見いだすぐらいなら、ばちは当たるまい。(そもそも
しかしながらこの不藁という男は、ストイックなまでにプロ意識の高い専門家だ。任務遂行の妨げとなるいっさいを全力で排除する――そのわりには、葵や(特に)二葉拓海とかいう、絶対トラブルを招くに決まっている連中をのさばらせているが。
行程は一カ月半におよぶ長丁場。不藁本人は平然とした顔でこなすのだろうが――必要とあらば二徹三徹はあたりまえのようにやってのけ、最長で五徹したのち二十五時間、死んだように眠ったとの逸話を持つ――なるべく負担を軽減させたい。実家に到着すればいくらかは気が休まるだろう。
列車内の明かりに浮きあがり流れていく鈍色の壁。前景には、まだこの世に生を受けていない姪と男友達の姿がある。不可能の存在。
――昭和スマホ見てみたいのに誰も使ってないね――この時代はまだレアアイテムなんだろ――そんなことを休みなく話し続けている。
本来ならば起こりうらないとりあわせ。歴史の軌跡が、
――そうだ、今このときこそ、俺は時をさかのぼっているのだ。
これから訪ねる生家を思って、談笑する青年少女とその後ろ、窓辺をゆき交う時間の奔流へ目を細める博に、千尋――もうひとりの右腕で、今は字義どおり右隣に座っていた――がくすと笑んだ。「ひたってるの?」
「なにせ十数年ぶりだからな」どこか照れくさそうにほほ笑みかえすと、彼女は、大丈夫なの、といじわるげに問うた。
実家の敷居が高くなるような後ろめたいことが別段あるわけではない。長らく行っていない理由は千尋に話してある。彼女が冗談めかして示す疑念はそこではなかった。
「『俺は未来から来たおまえだ』なんて言う中年男が――」隣の車両をドア越しに注視する不藁が、おもむろに口を挟む。「突然家にやってきたら、俺なら〇・五秒で追い返すな」
博を挟んだひとつ隣で同意する角刈りの後頭部へ、千尋はにんまりうなずく。博へ視線を戻し「モグさんだって、自身を究極の
「まあな。だけど――」計画の作戦会議で何度となくあがった懸案事項に、博は改めて余裕をみせる。「その仮面を剥ぎ取れば、夢に震える
自分のことは自分が一番わかっているさ、とくと結果をご
暗い車窓に映る自身へ、若かりし艾草博の驚愕する顔を重ね、壮年の男は自信たっぷりに言った。
車内アナウンスの自動音声が、乗換駅への接近を告げる。「まもなく、東京、東京。JR線は、お乗り換えです。お出口は、右がわに――」
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