新薬・エクリプセ

 エクリプセ。

 日食を意味する言葉で、日本で開発が進められている新薬の名称だ。


 対象となる疾病はCOVID-19――2019新型コロナウイルスにより発症する急性呼吸器疾患。

 この新しい感染症は、二〇一九年末に登場するやいなや、恐ろしい勢いで勢力を拡大。瞬く間に地球規模の広がりをみせた。

 新疾患の猛威は保健衛生面のみならず世界経済に打撃を与え、その先には安全保障をおびやかす事態さえ待ちかまえている。


 各国政府が、入国の規制・外出の制限・所得の大半の補償・国債の発行・全世帯へマスクを二枚配布するなど懸命の対策を打ちだすも、世界的大流行パンデミックとその影響に歯止めのかかる気配はない。

 製薬企業や大学などの研究機関では有効な治療薬の開発を急いでおり、エクリプセもそのひとつだ。


 名前の由来は前述のとおり日食。皆既日食の際、太陽本体が覆われ太陽のコロナが浮かび上がる姿になぞらえ、新型コロナウイルスのみを免疫細胞の攻撃対象として絞り込む。


 開発の中心をになう組織は、独立行政法人・国立化学工業機構(Chemical industrial national corporation)、通称Cincoスィンコ

 正式名は地味、略称はどことなく卑猥な感じがしないでもなく、名称的にはやや不遇の組織だが、その実、知る人ぞ知るエリート集団。化学工業の界隈では世界的に認知されており、薬学分野も下支えしている。


 Cincoのエクリプセ開発責任者は「迅速な対策を要する危機に対して、我々は画期的な研究開発手法を導入した」と自信をのぞかせる。いわく「和牛商品券の配布に匹敵する奇策」。


 どの国の政府も思いつかないし思いついても提言には大きな勇気を要する、と各国から注目を集めた和牛商品券に値する手法の奇抜さは、残念ながら高度に専門的で一般の人々にはぴんとこなかったが、どうやら、難解な理論をもとにしたAIをもちいれば大幅に時間を短縮できるらしい。

 国民はもとより世界じゅうから(今度はいい意味で)注目を集めたエクリプセだったが、その開発の裏舞台は難航していた。


 一般にはあまり知られていないが、このAIの基盤技術は「双曲幾何的環状モデルにおける多元解およびε-加群の写像と抽象性の一般化」という難しげな名称と、その名に引けをとらない恐ろしく難解な数学理論に支えられている。

 理論を構築した小半こなから助教授の名前から数学者の間では一般に「小半理論」と呼ばれ、それまで純粋な数学上の研究対象にこそなれ現実世界での用途はないもののひとつに数えられていた。

 が、どこで見つけてくるのか、AIの研究者が同理論に着目し応用。エクリプセの開発に大きく寄与する。


 喜び勇んで公表したまではよかったが、そこからが苦難の始まりだった。


 動物実験の段階にいたったところで予想外の副作用に悩まされる。予測と結果の乖離があまりに大きいのだ。

 いくら検証を重ねても思うように抑制できず、いたずらに時間が過ぎるばかり。その間にもウイルスは我がもの顔で世界の国々を蹂躙し続けた。


 エクリプセの開発が思わしくないことが明るみに出はじめると、期待は急速に失望へと変わる。人々がくるりと手のひらを返すのは実にすばやく、「CincoじゃなくてTinc◯ティ◯コ」だの「いや、チ◯コ」だのとの品のない揶揄も聞かれるようになる始末。


 国民の矛先が政府に向いたことで、エクリプセはいよいよ開発中止の危機に追いやられる。ちょうどそのころ、マスク・和牛商品券に続く第三の迷案「五万円札を発行し全国民に配る」が国じゅうから非難を浴びていたからだ。


『新しい高額紙幣の発行により景気を刺激し国民に笑顔を届ける』との触れ込みで、肖像に選ばれた徳川綱吉――生類憐れみの令で知られる犬公方いぬくぼうは、満面の笑みをたたえていた。図案のもとになった本来の肖像画は、不機嫌そうなしかめっつら。

 なぜ徳川綱吉なのかは不明瞭だったが、それ以外にも、各方面が例年以上に忙殺されている年度末に突然発表するだとか、五六七コロナの頭を叩くと称して五月じゅうに実施するとのでたらめなスケジュールを示すとか、財源はどうするつもりなのかとか、キャッシュレス決済を進める政策とも合致しないとか、そもそも効果に疑問符しかつかないとか、どこからこんなトンデモ案が出てきたのかとか、というかいつの間に決定事項になっているのかとか、どういう経緯をたどればこんな正気の沙汰ではない空前絶後の事態が起こりうるのかとか、まさかマスクや和牛商品券をはるかに超えるしろものが出てくるとは想像しなかったとかの噴出するツッコミで、肖像の選定理由などさして顧みられなかった。

 なお、綱吉は流行り病で亡くなっている。


 以後、政府のやることなすことすべてにケチがつくようになり、望みをかけられていたエクリプセも開発の不振が伝わると非難が集中。国民の血税をこれ以上まだドブにたれ流すのかとの批判を交わそうと、政府はエクリプセに組んでいた巨額の特別予算をすばやく撤回した。

(実はCincoの処遇も、政府お得意の「とりあえず名前を変えてごまかそう」との姑息な意図から、いったん解散し「技術革新みらい振興機構(Technological Innovation Mirai Promotive Organization)」との名称で再組織する案が浮上していたが、「略称でまた笑いものになる」との反対意見が出て、討議しているうちたち消えとなった)


 頭を抱えたのはエクリプセ開発の責任者だ。

 完成はあと一歩のところまで近づいている。不可解な副作用さえ克服できれば、安全性はAIの予測データにより保証されており、改正された特別法にもとづいて臨床試験も認可も迅速にクリア可能。コロナ禍の終結へと速やかに向かえるか、それとも今のこの危機的状況すら「あのころはまだましだった」と嘆くような荒廃した世界を迎えるか、その岐路に立っているのだと。


 エクリプセ開発に欠かせないAIは、先述の小半理論の応用によってなりたっている。

 実は小半理論は不完全であり、解決すべき欠陥が存在することが小半助教授自身によって指摘されていた。助教授は小半理論の論文発表後も研究を続け、のちに「修正・小半理論」と呼べる発展型の理論を構築している(例によって正式名称はやたら長く意味不明のため割愛する)。

 なぜか助教授は論文などでその理論を公表することなく大学を去り、その後は消息不明。今度のコロナ騒動でにわかに脚光を浴びるまでは、助教授の名前も研究成果も、そしてすでに故人であることもほとんど世に知られることはなかった。


 エクリプセの副作用は、小半理論では未解決の数学的な欠陥から生じるものと考えられていた。小半理論が内包する不足を解消した修正・小半理論でAIを再構築すれば、おそらく課題は氷解すると目されている。

 幸運なことに修正・小半理論は手もとにあった。だた、ひとつだけ問題が。

 データが暗号化されているのだ。


 修正・小半理論のパスワードを知る唯一の当人はすでに他界。暗号の解読を試みようにも暗号化の方式すら不明のありさまで、国内外のセキュリティー専門の企業や研究機関へ協力をあおいでみるも、どこも成果を出すにはいたらなかった。

 不完全な小半理論を改めて修正・小半理論へと発展させる、いわば車輪の再発明も試みられた。が、極めて難解、極めて独創的な発想のもとに構築された数学理論へまともに手を加えられる数学者は世界広しといえど皆無。それができるなら数学界のノーベル賞ことフィールズ賞も視野に入ると評されるしろもの。つまりは手づまりだった。


 事態が変わったのが四月下旬。


 世間が、日々拡大を続ける新型コロナウイルスの脅威におびえ、非現実的な五月じゅうの綱吉配布が強行される状況を冷笑し、どこからか流出した「CincoがTimpoに変わるらしい」との噂に今年何度目のエイプリルフールだとあきれかえっているとき、くだんのCincoからとある「依頼」が提示された。


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