第36話 倉庫の死体

 目の前でサメが泳いでいる。

 黒くもったりとした目が静かに僕を見つめていた。大きな体が青い水の中をゆったりと進む。

 僕はカメラを構え、シャッターを切った。


「いい写真じゃあないか」


 横から写真を覗き込んだ部長が笑った。僕は頭を下げ、目の前にある分厚いガラスにそっと指を這わせた。


 とある日曜日、僕達は水族館に来ていた。

 夏休み前から、動物の写真を撮りに行かないかと部長から誘われていたのだ。

 楽土町には水族館と動物園と遊園地がくっついた複合型テーマパークが存在する。それほど広くはないけれど、動物を見るには最適の場所だ。

 休日のお出かけにもピッタリなので、日曜日の今日、周囲には家族連れや友人や恋人と遊びに来ている人で混雑している。


 濃いブルーの水の中を雄大に泳ぐ魚は生き生きとしていて美しい。

 僕は夢中になって写真を撮った。久しぶりにカメラに集中することができて、心が弾んでいた。


「凄いサメの数ですね。もし水槽に落ちたらなんて考えると、ゾッとするな」

「人食いザメの展示なんかするものか。水族館にいるサメは全部温厚な者ばかりだよ」

「でも部長、こっちのシロワニとかイタチザメは危険だって書いてますけど」

「…………や。今はちょうどイベント期間のようだな。『デンジャー展』だそうだ」

「デンジャー展」

「危険生物の限定展示だ。このサメ達もイベント期間中だけいるみたいだな」

「へぇ、だからこんなに人が集まって。落ちたらどうなります?」

「死」

「死か……」


 僕は水槽から一歩後退った。落ちないよ、と部長が笑う。噛み殺されるのは嫌だなぁ、とその隣で鷹さんが写真を撮りまくっていた。彼女は満足気に頷きながら自分が撮った写真を見つめていた。


「生き物の写真はいいね……。生命の躍動を感じるよ……」

「ブレッブレの写真のことをかっこよく誤魔化さないでください」

「これとか超躍動感出てるでしょ」

「ウニの写真に躍動感はいらないんですよ」


 鷹さんと偶然出会ったのはついさきほど、というか五分ほど前のことだった。

 彼女は雑誌に載せる用として、水族館の取材に来たらしい。しかし共に来る予定だったカメラマンが体調不良で来れず、仕方なく鷹さん一人で取材をすることになったのだという。

 彼女一人で写真が撮れるのだろうか、とちょっと不安に思って写真を覗いてみれば予想通り。このまま会社に戻ったら叱られること間違いなしだろうというレベルの写真しか残っていなかった。やけに自信満々な彼女を僕と部長でなんとか説得し、こうして一緒に写真を撮ることになったのだ。


「ねえ見て。この写真綺麗に撮れたんじゃない?」

「あ、本当だ。ブレてない」

「ブレていないな」

「そこ以外も注目して」


 三人で賑やかに写真を撮るのも悪くないな。

 元々、こうして他人と共に写真を撮る機会などそうそうなかった。他の部員達を誘ったってバイトがあるから新作のゲームが発売されたからなどと理由を付けて、あまり一緒に撮りに行ってはくれないのだ。頻繁に撮りに行ってくれるのは部長くらいなものだ。友人と和気あいあい撮影するのはとても楽しい。

 僕はしみじみとした思いを浮かべながら水槽へ顔を向けた。魚が青の世界を泳いでいる。こぽこぽとのぼる泡が光を反射して美しく輝いている。

 水槽の魚を見て皆笑顔を浮かべていた。子供達がペンギンに興奮して騒ぎ、恋人同士が青いライトに照らされてうっとりと肩を寄せ合い、どこかの姉妹がイワシの大群に涎を垂らしている。


「イワシのからあげ、マリネ……。ね、なんか食べに行かない?」

「さっき食べたばっかじゃんお姉ちゃん…………」


 あれ、と声を上げるとそこにいた姉妹が振り返った。雫ちゃんとその妹の晴ちゃんだ。

 二人は僕がいることにそれぞれ驚いたように目を丸くして、それから「伊瀬くん」「湊くん」とそれぞれ声をあげた。お揃いの青いワンピースがふわりと揺れる。


「伊瀬くんもサメ見に来たの?」


 晴ちゃんがぴょっと飛び跳ねるように僕達の元にやってきた。丸っこいけれどじとっとした目が僕を見上げる。


「僕は部活動の一環で写真を撮りに。二人はサメを見に?」

「うん、デンジャー展。あたしサメ好きだからさ。餌やり体験でもできないかなって」

「は、晴がどうしても行きたいって聞かなくて……。わたしは怖いから嫌だって言ったんだけど……」

「伊瀬くん聞いてよ。お姉ちゃんずっと水槽見て、お寿司食べたいとかフライが食べたいとか言ってんだよ」

「晴!」

「最近この人食欲イカれてるの」


 仲良く頬をつねり合う二人を見て、微笑ましいなぁと胸がほっこりする。僕には兄妹がいないからこういうやりとりはただ羨ましいものなのだ。

 頬を赤く腫らした晴ちゃんが僕の持っているカメラを見て、見たいとせがんでくる。撮ったデータを彼女に見せればズラリと並ぶ写真を眺めてきゃっきゃと笑った。あたしも撮る、と僕のカメラを手にあちこちくるくる回ってシャッターを切っては、部長や鷹さんに見せてはしゃいでいた。相変わらず表情の変化は乏しいけれど、弾んだ声音や動作が彼女の賑やかな心を表している。


「ごめんね湊くん。晴ったら、もう」

「ううん。可愛いね、晴ちゃん」

「まあ、可愛いけど……」

「お姉ちゃんの雫ちゃんも可愛いよ」


 そう言うと彼女は目を丸くして、パッと僕から顔を反らした。サラリと垂れる髪の毛の隙間から赤い耳が覗いている。

 妹の前だと雫ちゃんはいつもとちょっぴり印象が変わる。その姿はとても愛らしいのだ。


「お姉ちゃん、伊瀬くん。見て見て。ロマンチックに撮れてるっしょ」


 晴ちゃんがそう言ってカメラを手に僕達のところへやってきた。僕と雫ちゃんは両側から画面を覗き込んで、ぱちくりと目を丸くする。

 画面に映っているのは僕と雫ちゃんが横に並んで立つ今の光景を切り取った写真だった。何てことはない、ただの友人同士の語らいのはず……なのだがそう思えないのは、照れた雫ちゃんの赤く染まった頬と、それを微笑ましそうに見つめる僕の眼差しによるものか。

 背景の青い水槽から差し込む光がロマンチックに僕らを照らし、まるで恋人の語らいのようにも見える。ムードのある素敵な写真だった。

 僕と雫ちゃんは思わず顔を見合わせる。僕は少し赤くなった頬を掻き、雫ちゃんは小さな悲鳴を喉に飲み込んで妹の手からカメラを奪った。


「晴っ。写真もいいけど、水族館に来たんだからお魚見ようよ!」

「お姉ちゃんたら照れちゃってまぁ」

「ほ、ほら。カクレクマノミだって。……おいしいのかな」

「醤油とわさびがあれば多分いけるよ」

「こっちの魚はなんだろう? ええと……」

「ドクウツボだって」


 答えたのは僕ではない。僕達が揃って顔を上げれば、目の前に爽やかな笑顔を浮かべた男性が立っていた。

 短い茶髪で長身の男性。確かありすちゃんがおまわりさんだと言っていた人だ。名前は確か……。


「澤田さん?」

「こんにちは。確か、あの喫茶店で会ったよね」


 僕達はぺこりと頭を下げて簡単に自己紹介をする。湊くん、雫ちゃん……と僕達の名前を確かめるように繰り返して彼は微笑んだ。

 青い光が彼の横顔を照らす。水族館の冷たく柔らかい空気が、よく似合う人だと思った。優しい笑顔が青く浮かぶ。


「魚好きなの? この水族館はいいよね。たくさんの種類がいて」

「は、はい。お魚、好きです。可愛くて」

「でもお姉ちゃんさっきから、水槽見て刺身とか煮付けとか言ってる……」

「晴!」


 雫ちゃんは妹の口を塞いだが、ぐぅ、と雫ちゃんのお腹から音が鳴った。彼女は顔を真っ赤に染めた。ほら見たことかとばかりに晴ちゃんがそのお腹をぷにぷにつついた。

 澤田さんは笑いながら、ちょっと待ってと僕達に言ってどこかへ消えた。そうしないうちに戻ってきた彼は人数分のソフトクリームを手に戻ってきたのだった。


「はい、どうぞ」

「えっ。そんな、悪いですっ」

「ソフトクリームは嫌いだった?」

「い、いえ好きです……ありがとう、ございます」


 申し訳なさそうにソフトクリームを受け取った雫ちゃんは、けれども一口食べた途端嬉しそうに頬を緩めていた。

 僕達も礼を言って食べる。バニラとラムネがミックスされたソフトクリームは、爽やかな甘さでとてもおいしかった。冷たい甘味を堪能する僕達を、澤田さんは微笑ましい目で見つめる。けれど会話の中で僕達がこれから動物園に行って写真を撮ろうとしていることを伝えると、その眉根がぴくりと寄せられた。


「そっかぁ。気を付けてね」

「何をです?」

「今日暑いから。俺さっき入ったばかりなんだけど、朝と比べてうんと暑くなってたよ。動物園は外だろ」

「ありがとうございます。でも大丈夫です、体力には自信があるので」

「暑いと変な人も増えるし。怪しい奴に絡まれたりしたら助けを呼んでくれよ」


 すぐ駆けつけてあげるから、と言って澤田さんは白い歯を見せて笑った。日曜日の賑やかな動物園でおまわりさんに助けを呼ぶ機会はないといいのだが、と思いながら僕も笑顔を浮かべる。


「大丈夫です。暑さなんかに、負けたりしませんよ!」




「あっつ…………」


 カメラの向こうに蜃気楼が見える。ゴリラの檻の前で、僕達は大量の汗を流しぐったりとしていた。

 飼育員からプレゼントされた、フルーツ入りの氷の塊をゴリラがしゃりしゃりと齧っている。羨ましいと僕は乾いた笑い声を零した。さっきソフトクリームを食べたばかりなのに、体はもう既に冷たいものを欲している。

 空は憎くなるほどに青く晴れ渡り、雲一つ浮かんでいない。まっすぐ照り付ける太陽が僕達の肌を焼いていく。

 夏、なめてた。今日はそれほど暑くならないと聞いていたのに、こうもグンと温度が上がるなんて。帽子でもかぶってくるんだったな……と汗ばんだ前髪をかきあげ溜息を吐いた。

 僕達はカメラを手に園内を歩く。撮りたい動物は山ほどいるのだ。暑さにぐったりしている暇などない。

 乾いた土のにおい、生きている動物のにおい、セミの鳴き声の濁流。混ざり合ったそれらを感じる上に直射日光で炙られる。鼻の頭に滲んだ汗がぽたりと地面に落ちた。


「あの、よろしければこれ、どうぞ」

「ん。あ……ありがとうございます」


 不意に横から腕が突き出され、何かを渡された。ぼんやりしていた僕はそれが何かを確認する前に思わず手に取ってしまう。ティッシュかうちわかな、と渡されたものを見つめた僕は、途端顔を険しくした。


「げっ」


 ただの薄いチラシである。けれどその内容は動物園の紹介でも何でもなかった。

 『動物達を牢獄から救おう』とか書かれたそのチラシには、動物園に対する抗議がびっしりと並んでいた。

 檻に閉じ込められる動物は可哀想だの、広大な自然から捕らえられた彼らをふるさとに戻そうだの、そういう文句が紙いっぱいに満ちている。更には檻に閉じ込められて泣いている動物のイラストが描かれ、見る者の哀愁を誘っていた。

 チラシを受け取った僕のことを標的と定めたのか、配っていた女性がササッと目の前に立ちふさがる。スタッフではないようだ。

 にこやかな笑みが顔に張り付いている。白いファンデーションは汗と皮脂に崩れていた。一体どれだけの時間、炎天下でチラシを配っていたのだろう。


「どうも、こんにちは。わたしたちは動物の救援活動を行っています。豊かな自然から連れ去られ、家族と離れ離れになった動物達に救いの手を差し伸べませんか? どうかあなたの慈悲の心をお分けください。今こそ動物達を救うときなのです。わたしたちは他の動物保護団体とは違い、積極的な活動を心がけています。動物達をいち早く解放するために。本日もこの動物園にて……」

「……あっ。ねえ、あっちにライオンがいるって。見に行こ」


 鷹さんが女性の言葉を遮って言った。手を引っ張られ、僕と部長は小走りに女性の横を通りすぎる。すれ違う瞬間僅かに女性と目があった。にこやかに細められた黒い目がやけにギラギラと輝いていて、心臓が恐怖に縮んだ。

 ライオンの檻の前は人で溢れていた。どうやらこれから餌やりタイムらしい。大勢の人が今か今かとライオンの檻を見守っている。

 人ごみに紛れてようやく安堵のため息を吐いた。握ったままだったチラシはくしゃくしゃに折れ曲がっていた。

 ふと、下部に彼女達の団体名が載っていることに気が付く。『黎明の乙女』、という文字に驚きと納得が同時に襲い来る。やっぱりこいつらか。

 後でゴミ箱に捨てておこう、と僕は適当にチラシを丸めてポケットに突っ込んだ。


「本当に変な人がいたね」


 鷹さんが苦笑して肩を竦めた。まったくだ、と部長と僕も同意して頷く。

 動物園の動物を可哀想だという思想は個人の自由だ。だが抗議のチラシを園内で配るのは、明らかな営業妨害である。

 あの近くにスタッフさんの姿はなかった。すぐに気が付かれない場所でチラシ配りをしているのだろう。わたしたち、というからには他にも何人かチラシを配っている人達がいるはずだ。


「こうも暑いと頭のネジが焼き切れるのかもしれんな。この間も、駅前で似たような人を見かけたよ。『神を信仰せよ』と大声で叫んでいた」

「ああ、いますね。僕もこの前四つん這いで走り回ってる人を見かけましたよ」

「それはまた随分…………ううん、変な輩が増えたものだ。薬物でも流行っているのかな」

「その通りだよ。最近、薬物が若者の間でブームなんだって」


 横から鷹さんが言った。なんと、と部長は目を丸くしたけれど僕は驚かなかった。薬物がはびこっていることは既に知っていたからだ。トレンドみたいに言わないでくださいよと僕は笑ったけれど、「薬物で思い出したけれど」とその後に続いた彼女の言葉には驚いた。


「君達のところの校長先生、生きてるってさ」

「えっ!」


 僕と部長は思わず顔を見合わせた。

 校長先生のことはあの終業式以来あまり話題にのぼることもなかった。

 思い出したくなかったのだ。あの日の惨劇、青白い首から吹き出す水っぽい赤色の噴水のことを。

 あんな出血で生きているわけがないと誰もが思っていた。だけど生きていたのか。そうか、死んではいなかったのか。よかった……。


「薬物って単語から連想することじゃないでしょう」


 安堵した僕は笑って言った。校長先生と薬物という単語の二つはあまりにも結び付かない。

 けれど鷹さんは笑ってくれなかった。彼女は真剣な顔で、首を横に振る。


「それが、校長先生から薬物反応が出たらしいんだよ」


 僕達から一気に笑顔が失せた。

 まさか、と部長が茫然と呟いた言葉が地面に転がる。鷹さんは真剣な表情を崩さなかった。嘘ではないのだと僕達も悟る。


「記者をやってる友人から聞いたの。手を出してからはまだ二ヶ月程度。でも頻繁に摂取していたせいで重度の中毒になってるって。首の怪我が安定次第、詳しく事情を聞くらしいけれど」

「校長先生が、薬物を…………」

「仕事のストレスか」


 部長は低く唸るように言った。仕事のストレス、と曖昧にぼかしてはいるが、この場にいる全員が思い浮かべていることは同じだろう。

 今年度に入ってから北高校は数々の問題が発生した。はじめて出現した怪物、亡くなった生徒と教員、破壊された校舎、修繕不足で発生した火災、またもや現れた新たな怪物。

 校長先生の責任を追及する声は多かった。日に日にやつれていく校長先生のことを、生徒達でさえ大変だねと心配していたのだ。

 耐えられなかったのだろう。追い詰められた精神が薬物に縋ってしまうのも、無理はないかもしれない。

 セミの声がうるさく響く。押し黙る僕達の周囲に、動物にはしゃぐ人々の声が響く。

 汗が頬を伝う。僕は乱暴に肘でそれを拭い、重い空気を変えるように言った。


「喉乾きませんか。飲み物買ってきます、二人の分も」

「ありがとう。じゃあ私ワインがいいな」

「では俺は最高級シルク牛乳を」

「水ですね」


 さっき通った建物の傍に自動販売機があったはずだ。歩いて行けば記憶通り、備品倉庫の建物の横に、一台の自動販売機が置かれていた。財布を取り出して水のボタンを押そうとした僕は、ふとその裏から何やら小さな話し声が聞こえてくることに気が付く。


「はい確かに。毎度ありぃ。今後ともうちの薬をどうぞよろしく」

「……何やってんの?」

「ギャ!」


 自動販売機の裏を覗き込んだ僕は、そこにいた千紗ちゃんの背中に声をかけた。びくっと素早い反応で振り返った彼女は僕の顔を認識すると、なんだ、と溜息を吐いて胸を撫でおろす。

 その手には数枚の万札が握られていた。彼女は無造作にそれをポケットに突っ込む。彼女の背後に、小走りにどこかへ去っていく人影が見えたが、顔を確認する前にその姿は倉庫の向こうへ消えてしまった。


「奇遇だな、こんな所で。お前も動物好きだったんだ」


 うんまあ、とぼんやりした返事をして僕は彼女の格好を見つめた。黒キャップに大きめの黒いブルゾン。デニムのショートパンツから、すらりと長い素足が惜しげもなく晒されている。

 僕の視線に気が付いた彼女はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。


「やだな、後輩の生足をそんな熱い視線で見つめちゃって。見物料払えよ」

「違うよ。そのブルゾンかっこいいなと思って。メンズ?」

「オーバーサイズで可愛いだろ。それにポケットにたくさん入るから便利だ。女物は、ポケットが狭いから」

「ふーん。何入れてるの?」

「商品」


 彼女が両手を突っ込んでいる上着のポケットには、まず確実に薬物が入っているのだろう。

 目の前で行われる犯罪行為に僕は肩を竦める。彼女がまだ売買を続けていることは知っていたが、まさかこんな所でまでやろうとは。さっき走り去った人間は客だ。今日だけで一体何人に売りつけているのやら。


「君が素直に動物を愛でに来るはずないとは思ってたけどさ」

「は? あたしだってちゃんと動物見に来てるし。これからライオンの餌やりを見に行くんだ。餌やり体験とかあんのかな? 迷惑な客を檻の中に突き落としていくとか」


 少しは商売控えなよ、と言えば彼女は不満そうに目を細めた。どうして、とその目が訴えている。


「ありすちゃんが言ってたろ」

「ヤクザがどうの市場価値がこうのってやつ? 今ですら、以前より控えて売ってるってのに、これ以上控えたら商売自体できなくなっちまうよ」

「これを機にいっそやめたらどう?」


 友達がヤクザに捕まって殺されるなんて嫌だ。警察に捕まるのもそれはそれで悲しい。彼女には早いこと薬から手を引いてほしかった。だけど、嫌そうなしかめっ面を見る限りそんな気はないのだろう。これからも彼女は商売を続けるに違いない。駅前で、ショッピングモールで、学校で……。

 ふと僕は彼女を見下ろした。さっき鷹さんから聞いた校長先生の話を頭に浮かべる。

 思うことがあった。

 こちらを見上げた彼女の瞳は、太陽光に透けてか黄土色に見える。その瞳を覗き込むようにしながら僕は口を開き、


「やあ、こんにちは」


 ぬるりと背後から伸びてきた手に驚いて、言葉を発することができなかった。

 僕と千紗ちゃんは揃って体を強張らせる。急に背後から伸びた白い手が僕達の首に回されていた。骨ばった指が首筋をくすぐる。筋の浮かんだ腕には、黒いタトゥ―が絡みついていた。


「最近よく会うねぇ」


 おそるおそる振り返れば、満面の笑みを浮かべた黒沼さんが僕の顔を覗き込んでいた。

 どうしてこんな所で、と僕は目を見開いた。今日はなんだか知り合いによく会う日だ。だけど彼にだけは会いたくなかった。

 暑いはずなのに、僕達の周りの空気だけが酷く冷えていく気がした。背に滲む汗は暑さのせいじゃない。彼の指が触れている首筋が妙にぞくぞくする。触れているのが指ではなく、ナイフだと言われても納得できそうな恐怖だった。

 遊びに来たの、と言いながら彼は僕の手にあるカメラを見つめた。


「しゃ、写真を撮りに来たんです」

「ああ……。そういえば君は写真が好きなんだっけ。前に話してくれたことあったよね」

「はは…………」


 彼の視線が少し怖かった。冷ややかなのにジロリと全身を舐めまわすような視線は、まるで獲物を狙う蛇のようだ。

 黒沼さんの腕が僕達の肩を掴む。簡単にほどけそうな力なのに、妙な凄みを感じて体が強張った。

 喫茶店で黒沼さんのことを語っていたときの、ありすちゃんの言葉を不意に思い出す。

 ――――多分、ヤクザとおまわりさんよ。

 ヤクザ。

 その単語が持つ威圧感は凄まじい。僕はごくりと唾を飲みこんで、黒沼さんの腕のタトゥーを静かに見つめた。


「そっちの子は、名前なんだっけ」

「…………犬飼」

「わんちゃんだ」

「……………………」


 何が犬だよ人間だわ馬鹿死ね、くらいは言いそうな千紗ちゃんも今ばかりは神妙な顔で黙りこくっていた。黒沼さんに対し危機感を抱いているのは僕だけじゃないらしい。

 黒沼さんの指が彼女の髪に触れる。ビクリとその小さな肩が跳ねる。冷たい指が、金色の髪をくすぐるように撫でた。


「綺麗な色だなぁ」

「や……やめてくださいっ」


 僕は思い切って二人の間に割り込んだ。千紗ちゃんを背に庇い、彼との間に距離を取る。

 そうだ。今千紗ちゃんに絡まれるのは困るのだ。彼がヤクザなのだとすれば、千紗ちゃんのポケットに入っている薬物を見られるわけにはいかない。


「彼女にも手を出すつもりですか?」

「俺が? まさか。そんな節操ない男に見える?」

「…………ありすちゃんにも手を出してたじゃないですか」


 あんな見るからに純粋無垢な女子高生をホテルに連れ込むような奴は、どう考えたってまともな人ではない。警戒した目で黒沼さんを睨めば、彼は肩を揺らして笑った。


「君、あの子の彼氏だったの」

「ただの先輩です。後輩のことを心配してるだけだ」

「警戒されちゃったなぁ」


 彼の手がこちらに伸びる。僕は千紗ちゃんに触れさせるまいと両手を広げて彼女を庇った。

 だけど彼の手は僕の腰を掴んだ。ギョッとしてる間に、強く彼の元に引き寄せられる。

 黒沼さんの手がするりと背筋を撫でた。妙な触り方に鳥肌が立つ。


「やだな、嫌わないでくれよ」

「えっ」

「俺は君とも仲良くしたいんだ……」

「えっ。あの…………えっ」


 キョトンとする僕に黒沼さんの顔が近付いて、掠れた吐息が頬にかかった。彼の艶やかな黒いまつ毛がすぐ目の前にある。その唇が僕の唇に触れそうになった。


「ギャーッ!」


 僕はカッと顔を赤くして、必死で彼の胸を押しのけた。黒沼さんがそんな僕の姿を見て爆笑する。完全に楽しんでいる反応だった。


「ははは、つれないなぁ」

「ぼ、僕は年上の綺麗なお姉さんがタイプなんです!」

「年上の綺麗なお兄さんも似たようなもんだろ」

「だいぶ違う!」


 腰をガッチリ掴まれているせいでいくら暴れても抜け出せやしなかった。更に笑って顔を近付けようとしてくる黒沼さんから、必死に仰け反って距離を取る。

 こ、こいつマジで最悪だ、節操がなさすぎる。ありすちゃん達には今後絶対近付かせないようにしないと……。

 顔を引きつらせて僕達を見ている千紗ちゃんに助けを求めようと手を伸ばした。

 ガタン、と大きな物音が響いたのはそのときだった。


「っ」

「ギャッ!」


 急に手を離されたせいで地面に叩きつけられた。強かに打ち付けた背中が痛く、僕は地面の上で身悶えた。それから文句を言おうと、勢いよく立ち上がって黒沼さんを睨む。


「黒沼さっ…………ん?」


 けれど言葉は途中で途切れる。黒沼さんが怪訝に眉をひそめ、真剣な面持ちで倉庫を睨んでいたからだ。かと思うと彼は倉庫に近付いていく。さっきの物音は、そちらから聞こえたのだったか。

 黒沼さんは倉庫の扉をじっと睨んで動かない。僕は怪訝に思って、彼の隣で同じように扉を見つめた。


「どうかしたんですか?」

「…………随分重い音だったなと思って」

「荷物でも崩れちゃったんですかね」


 黒沼さんは扉に手をかけ横に引く。どうせ鍵がかかっているだろうと思っていたが、予想に反し扉は軋んだ音を立てて動いた。

 が、扉は完全には開かなかった。ガコガコと音を鳴らしても、数センチしか開かない。

 扉の向こうに何かが倒れている影が見えた。さっき崩れた何かが、そこに引っかかってしまっているのだろう。僕もやってみたが、どうにも開かない。


「何やってんだよ。こういうのは勢いで開けるもんだ、勢いで」


 痺れを切らした千紗ちゃんが僕達の前に割り込み、扉に手をかけた。そもそもここ開けちゃ駄目なところじゃないのと言う間もなく、彼女は思いっきり扉を引く。

 ガタン、とまた大きな音が鳴り、今度こそ扉は大きく開かれた。引っかかっていた何かが千紗ちゃんの体に倒れてくる。

 べちゃりと水っぽい音がして、彼女の体に血がかかった。


「わっ!?」


 驚いた千紗ちゃんはそのまま倒れた。仰向けに転がった彼女を、僕も黒沼さんも助けることができなかった。倒れてきた物体から目を離せなかったからだ。

 それは血だらけの死体だった。


「あっ……!」


 声にならぬ悲鳴が喉から零れた。千紗ちゃんが目を見開き、自分の上に乗っかる死体から素早く距離を取る。

 作業着を着た死体だった。苦痛に見開かれたまま固まった顔はゾッとするほど青白く、僕はそれを直視することができず口を押さえた。

 僕も千紗ちゃんも固まっていた。その目の前で黒沼さんがしゃがみこみ、遠慮なく死体に触れる。


「死んでから時間はたってない」


 酷く冷めた声は、この状況にあまりに不釣り合いだった。


「まだ体が温かい。ついさっき殺されたばかりだ」

「っ、え……殺され…………?」

「刺し傷だらけだろ。犯人はまだ、この近くにいる」


 言われておそるおそる死体を見下ろしても、血だらけという情報しか入ってこない。赤い体をまじまじ眺めることなどできない。刺し傷があるかどうかも分からない。

 冷静に死体を眺める黒沼さんを、僕も千紗ちゃんもぼんやりとした目で見つめていた。死体を前にして何故彼がこうも冷静に動けるのか分からない。死体を見ることに慣れているのか? ……って、待ってくれ。刺し傷? 犯人?

 流れ込んでくる情報をゆっくり飲み込むうち、頭から段々血の気が引いていく。

 殺されただって?


「こいつ、どこのスタッフだ」


 その作業着はさっきゴリラの檻の中で動物に餌をやっていた飼育員と同じ服だから、もしかするとどこかの動物の飼育員なのかもしれない。けれどそれに、何の関係があるのか。

 飼育員さんかな、とぼんやり僕は言った。どこの、と黒沼さんに鋭い声で問われて首を横に振る。


「どこのって言われたって分かんないですよ……。動物なんていっぱいいるし。この辺りの檻も、ライオンくらいしか知ら、ない……し……」


 言いながら、僕は目を見開いた。思わず隣を見ると千紗ちゃんも思い至った様子で険しい顔をしている。

 そうだ。ライオンだ。

 確かこれから餌やりの時間だったはず。


 わっ、とどこからか大きな歓声が聞こえた。僕達は振り向く。声が聞こえたのはちょうど話題に出ていたライオンの檻の方からだった。僕は思わず駆け出した。

 嫌な予感がした。

 檻の周りにはさっきよりもたくさんの人が集まっていた。ライオンの様子を見に集まっているのだ。僕は無理矢理人を掻き分けて檻の前へと進む。最前列には部長がいた。僕に気が付き、にこやかに笑う。その隣に鷹さんの姿はなかった。


「部長っ、鷹さんは?」

「彼女ならあちらに」


 彼は檻の方向を指差した。彼女は他の観客と離れた所、一歩檻に近付いた所に飼育員二人と共に立っていた。その手には生肉が吊るされた棒が握られている。


「餌やり体験とは羨ましいね。俺も手を上げてみたんだが、選ばれなかったよ」


 部長の言葉は僕には聞こえていなかった。僕の目はただ、鷹さんの横にいる帽子をかぶった飼育員二人に吸い寄せられていた。

 男女二人だった。軽快なアナウンスも、ライオンの紹介も、一見、特にこれといって不審なとことはなかった。本物の飼育員だと僕も最初は思った。


『さあ皆さんにも、ライオンくんの生き生きとした姿を見てもらいましょう! それではお姉さん、どうぞ彼にご飯を!』


 だけどその声を聞いて気が付いてしまう。僕はじっとその飼育員の女性の顔を見つめた。

 帽子の陰から覗くその顔は、さっき僕にチラシを渡してきた女性、その人の顔だ。

 青ざめる僕の目の先で、鷹さんがライオンに棒を伸ばす。ライオンは生肉を凝視したまま、檻にゆっくりと体を押し付ける。


「離れろ!」


 後方から黒沼さんのものらしき怒鳴り声が聞こえた。だけどその声は周囲の歓声に紛れて、ほとんど聞こえなかった。

 キィ、と音がして鍵がかかっているはずの檻が開いた。

 開いた檻から出てきたライオンが、目の前の鷹さんに襲いかかった。

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