真夜中の嵐(2)

「俺にとって、君の意志なんてたいして重要じゃないんだ」


 アンリは言いながら、私に向けて手を伸ばした。

 強張る私を、彼は見向きもしない。そのまま強い力で、私の腕を取る。


「やろうと思えば、いつでも君を押しのけられる。――あるいは逆に、連れていくこともできる。今日みたいに」

「き、今日……?」

「そう。叔父上が言っていただろう? どうして君を逃がさなかったのか、と」

「それは……魔王にならないためで……」


 アンリにとっての『枷』として、私が必要だった。

 アンリ自身がそう言っていたはずだ。


 ――だけど。


 アンリのその言葉に、コンラート様はこう尋ねていた。

『本当にそれだけか』――と。


「ミシェル」


 低く名前を呼ぶと、アンリは目を細めた。


 青白い月の光の下、輝きを失った青い瞳が私を映している。

 ひたすらに静かなその笑みは、昏く、底知れなく――凄惨なまでに美しかった。


「君があの場にいれば――」


 触れるほどの距離から、アンリはさらに体を寄せる。

 影が重なり、アンリの顔が間近にあるのに、私は動けなかった。


 視線は、アンリから離せない。

 魅入られたように立ち尽くす私に、彼は顔を寄せた。

 唇さえも触れるほどの距離で――。


「俺が魔王になっても、君を逃がさずに済むだろう?」


 吐息が頬に触れる。

 底なしの瞳が私を招いている。

 恐怖さえ突き抜けた先にあるのは、心を壊すような魅了だった。


 息が止まる。

 掴まれた手から、闇に引きずり込まれるような気がした。


 アンリにはもう――あの場で、魔王になる覚悟ができていたんだ。




「――怖かった?」


 アンリは私から手を離すと、ふっと笑うように息を吐いた。


「魔王がどんなものか、わかっただろう」


 その姿に、先ほどまでの異常な魅力はない。

 心臓が恐怖を思い出したように脈打ち、全身から冷や汗が滲み出した。


「魔王は他人の心なんて知ったことじゃない。欲しいものは手に入れる。要らないものは踏みつぶす。それで誰が嘆いても、かえって愉快なくらいだ」


 青ざめ、荒く息を吐く私を見下ろし、アンリは顔をしかめる。

 笑っているのか、苦しんでいるのかは――その表情からは読み取れない。


「俺が本当に魔王になったら、君になにをするかわかるか?」


 私は首を横に振る。

 怯え、竦み、声も出せず首を振る私に、彼は目を細めた。


「めちゃくちゃにするよ、心も、体も。――きっと、死んだほうがマシだと思うくらいに」


 暗い瞳の奥には、かすかな欲望がある。

 その欲望を瞬きの間に消すと、彼は私から視線を逸らした。


「わかったなら、行かせてくれ。見逃せるのは、きっと今だけだ」


 アンリの視線は、離宮の外に広がる暗闇に向かう。

 立ち尽くす私にはもう目を向けず、そのまま足を踏み出した。


 アンリが横を通り抜ける。

 そのまま闇に消えていくアンリに、私は――。




「――ミシェル。なんのつもりだ」


 私は、手を伸ばしていた。

 反射的に、去っていくアンリの手を握りしめる。


「離してくれ。俺の話を聞いていただろう」

「聞きました、でも」

「君のためでもあるんだ」


 アンリの髪が風に揺れる。

 夜風ではなく――アンリの魔力のせいだ。


 ――怒っている。


 聞き分けの悪い私に、苛立っている。

 この魔力は、私自身に向けられているのだ。


「俺を行かせてくれ」

「……嫌です」

「いい加減にしてくれ。あまり俺を怒らせるな」


 風が強さを増していく。

 アンリの髪が風に揺れ、夜の闇に溶ける。

 アンリは振り向かないままに、静かな怒りを口にする。


「君に俺を止める資格があるとでも思っているのか」

「それは……ですが……」

「俺を拒み続けていたのは、君の方だろう……!」


 吹き抜けたのは突風だ。

 アンリの怒りに呼応するように、鋭利な風が私を裂く。

 頬に痛みが走り、じわりと熱を持った。傷ついているのだ。


「ミシェル、手を離せ」


 見えないとわかって、私は首を横に振る。

 風はますます強くなり、私の肌を傷つけていく。

 それでも、この手は離さない。


「離せ。さもないと――」


 いつまでも手を離さない私に、アンリはもはや、押し殺すこともできない怒りの声を吐き出した。

 風が吹き出す。一瞬、目の前が眩んだ――次の瞬間。


「――君ごと連れて行ってやるぞ! 俺はそれだって構わないんだ!」


 私は肩を掴まれていた。

 振り向いたアンリの顔が見える。

 魔力を暴走させないため、普段は感情を抑えている彼の顔に――あらわな激情が浮かんでいた。


「アンリ様……!」

「アンリ『様』!」


 嘲るように吐き捨てると、彼は怒りに顔を歪めた。

 私の肩を、指が食い込むほどに握りしめ、嵐のような魔力を暴走させながら、彼は叫んだ。


 悲鳴のように。


「俺の求婚を拒み、逃げ続けたのは君の方だろう! そんな君が、俺になにを言えるって言うんだ!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る