破滅したくない悪役令嬢によって、攻略対象の王子様とくっつけられそうです

赤村咲

プロローグ

 あの日のことは、今でもすぐに思い出せる。

 今からちょうど二年前の、春には冷たい日。星が少なく、月のきれいな夜。

 勇者アンリとその仲間たちが、魔王討伐のため、命がけの旅に出る前夜のことだ。


 あの日は、勇者たちの旅の無事を祈るという名目で盛大な宴が開かれていた。

 宴の会場である王宮の大広間には、国中から人が集まり、勇者の出立を祝って飲み明かしていたはずだ。


 私は王宮の中庭で、そんな大広間の喧騒を遠く聞いていた。

 宴の明かりも届かず、周囲を照らすのは月明かりだけだ。

 それでも、あのときの彼の顔ははっきりと覚えている。


「ミシェル。この旅が終わって無事に帰ってきたら……俺と、結婚してくれないか?」


 月明かりの下、私を見つめる彼の表情は真剣そのものだった。

 端正な顔は緊張に強張り、青い瞳は不安げに揺れている。

 吹き抜ける夜風に、彼の柔らかな金の髪が乱れていた。


「アンリ様……?」


 信じられない気持ちで、私は彼の名前を呼んだ。

 私の目の前にいるのは、今日の宴の主役。このグロワール王国の第一王子にして、精霊に選ばれし勇者アンリその人だった。


「き、急にどうされたんです? 使用人の私にそんなことを言うなんて」

「急にじゃないよ」


 動揺する私に、アンリは首を横に振った。

 それから戸惑う私に歩み寄り、十六歳にしては大人びた笑みを浮かべる。


「ミシェル・フロヴェール。俺は昔から、君を使用人とも、ただの幼なじみとも思ったことはない」


 アンリとの出会いは十年前。

 互いに六歳のころ、王子の遊び相手として私が選ばれたのが最初だった。

 それ以来ずっと傍に仕えてきた主人の、見たことのない表情に、私は息を呑んだ。


 立ち尽くす私の手を、アンリは手に取った。

 勇者として旅立つため、剣の訓練を続けた手は、骨ばっていて固い。


「君が好きだ、ミシェル。昔から、ずっと」

「アンリ、様……」


 それ以上、私の口から言葉は出なかった。

 驚きに思考が止まり、呼吸まで止まりそうになる。

 強張ったまま動けない私を見て、アンリは安心させるように笑いかけた。


「返事は今すぐじゃなくてもいい」


 だから、と彼は続ける。

 優しい笑みのまま、強い決意を秘めて。


「だから、待っていてほしいんだ。俺が帰ってくるまで。――君の返事を聞くために、必ず帰ってくるから」

「あ……」


 明日の朝には、アンリは旅に出る。

 再び戻れるかもわからない、危険な旅だ。


 魔王討伐の旅の仲間は、国中から選ばれた剣士と賢者、祈りの力を持つ聖女。アンリ自身も優れた剣の才能と、他者を圧倒する強い魔力を持っているけれど――それでも、魔王を倒せるかはわからない。


 精霊に選ばれても、魔王を倒せなかった勇者はいる。

 魔王と刺し違えた勇者もいる。

 アンリがそうならない保証なんてどこにもなかった。


 だけど世界を救うための旅に、『行かないで』とは言えない。

 魔王の力は日を追うごとに増し、いずれは世界を覆いつくしてしまう。

 それを止められるのは、勇者ひとりだけなのだ。


「ま――」


 アンリの笑顔を見上げ、私は震える声を上げた。

 私はアンリみたいに笑えなかった。勝手に表情が歪んでいく。泣きそうな顔で、私は祈るように彼を見つめた。


「待ちます! ずっと待っています! だから、どうかご無事で……!」

「ありがとう、ミシェル」


 アンリはそう言うと、私の手を離した。

 代わりに小指を立て、私に向けて差し出す。


「約束する。絶対に、生きて帰る」


 誰もいない、二人だけの中庭。

 月だけが私たちを照らす中、そっと指切りをしたことは――二人だけの秘密だった。




 その結果がこれだ。


「我が息子アンリ。聖女オレリア。魔王を倒したこの素晴らしい日に、二人の婚約を宣言する。今日は盛大に祝福しようではないか!」


 アンリの旅立ちから二年。

 無事に魔王討伐を果たし、帰還した勇者たちを讃える宴で、国王陛下は高らかにそう宣言した。

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