シャッター

網本平人

1


 カシャッ、とシャッター音が鳴った。


 夜道を歩いている、その時だ。


 仕事の帰りが遅くなったため、自宅付近の家々の明かりは疎らだった。辺りはしんと静まり返っていて、私の靴の音だけがやけに大きく響いていた。


 車一台分程の狭い街路。左右は住宅に挟まれていて、右前方には小さな月極め駐車場が見える。空には不安になるくらいの大きな月が浮かんでいて、風は生ぬるい。


 背後を振り向くと、ここまで歩き進んで来た道が長く続いている。人影は認められない。


 空耳だったのだろうか。それにしてはハッキリとした音だったが。


 再び正面を向いて、息を吐く。余程疲れているのだろう。それも仕方ないなと、自分で思う。上の人達からは随分とマシになったと聞かされるが、雑誌出版業界というのは男社会だ。報道部の記者となれば尚その比重は大きく、心身共に疲労も溜まる。


 更に今日はハードな取材が立て続けてあった事に加え、大きな事故まで起こった。撮る側が、なんて話を耳にした事はなかったが、今のコンディションなら幻聴の一つくらい聞こえても無理はないように思える。


 久しぶり帰った家主をセンサーが感知すると、天井のライトが殺風景な部屋を照らし出した。


 仕事の性質上、出先で寝泊まりをする事が多いため、防犯性を重視して選んだこの家に帰って来る事は少ない。帰って来たら来たで、熱いシャワーに体を潜らせ、あとはベッドに横たわるだけであるため、無精な私が住んでいるというのに散らかっていない。


 それなのに高い家賃を払い続けている事を日頃から馬鹿馬鹿しくは思っている。が、それも自分の性格故、どうにかしようと動き出す事は出来ずにいた。


 いますぐベッドへ倒れてしまいたい衝動を堪え、シャワーを浴びる。熱いお湯が、困憊した体にそのまま染み込んでくるような気がする。


 バスルームを出るとスマホが着信を知らせていた。ビール片手にソファーへ向かい、ドライヤーで髪を乾かしながらそれを確認する。


 火照った体に、鳥肌が浮かんだ。


 一通のメールだった。送信者の欄が何故か空欄になっていて、画像が添付されている。


 私の後ろ姿。そう。ついさっき、ここへ来るまでの夜道を歩く私を撮した写真だ。


 やはりあのシャッター音は幻聴などではなかったのだ。込み上げてくる気味の悪さを誤魔化すようにビールを呷った。


 こんな仕事をしていれば恨みを買う事もある。悪戯なんかにいちいちビクついていられない。思いながらもビールの量は増えていき、いつしか私はソファーの上で意識を手放していた。


*


 寝て起きて日の下に出れば、大抵の事は楽天的に捉えられるようになるところと、二日酔いになりづらいところを、私は自分の長所だと思っている。


 翌日何事も無かったように社へ向かった私は、普段通りに業務に勤しんだ。


 昨日の事故の事もあり、オフィスはいつも以上に賑やかだ。かかってくる電話の音や、沢山の話し声がひっきりなしに。人の出入りも激しい。


 デスクの上、パソコンのディスプレイに映し出されているのは、昨日、自らの手で撮した事故の写真だった。無数にあるこの中から、記事に使えそうなものをピックアップしなければならない。


 現場へ素早く駆けつけられた事もあり、凄惨な事故現場を、いい位置から写せている。


 片側一車線道路で起きた、乗用車と大型トラックの衝突事故。乗用車を運転していた二十代の女性が死傷した。画面上に映る変形した青の軽自動車は、押し潰された空き缶を思わせる。前から強い衝撃を受けた車体に、運転手が座っていられるような隙間は残されていない。


 そのため、私が現場に到着した時、被害者女性を車から出す作業はまだ続けられていた。元は真っ白だ 

ったであろうワンピースを着た女性がそこから救急車に乗せられるまでの場面も、フォルダの中には収められている。


 今回の事故は死傷した女性の車が、トラックが走る対向車線に進入した事により起きたものだった。その原因となったのは、女性ドライバーの後ろを走っていた車による悪質なあおり運転であった事が、昨夜の内に判明している。


 被害女性の運転する車は、後方を走る車に執拗なテールゲーティングやパッシングを受けた後、前方に割り込まれ、急なブレーキを繰り返された。それに耐え兼ね対向車線へ飛び出したところへ、運悪く正面からトラックが現れ衝突。その一部始終がドライブレコーダーや、周囲に設置されたカメラに記録されていた。尚、あおり運転の運転手もそれに巻き込まれ、今は意識を失っている。


 話題性のあるネタだ。今も我が社の記者達が、被害者遺族や関係各位の元へ、取材に向かっている。あおり運転の運転手には同棲をしている女性がいたらしいという情報がついさっき入った。こちらの証言も、多くの人の関心事になってくるだろう。


 こんな時、私達は道徳的な観点から侮蔑される事が多い。だけど顧客のニーズに合わせたものを売り込むのは、会社として当然の事だ。今回、私が撮影した写真の出来は良い。久しぶり巡ってきた手柄を立てるチャンスと言える。


 作業に没頭している内に、みるみると時間は過ぎていった。気がつけば昼過ぎ。このあたりで一息いれようかと伸びをしたその時だ。


 カシャッ。


 背後で、シャッター音が鳴った。


 不審に思い振り返ると、後ろのデスクでパソコンを叩くアイツの姿が目に入る。


 少しの間、鋭い視線を投げ掛けてみるも、沼田信之は素知らぬ顔でディスプレイを見つめているままだった。


 体を戻し、息を吐いた。おそらく昨日のあれも、沼田の悪戯だったのだろう。奴なら私の家の場所も知っているはずだ。


 放っておこうと考えたが、机の上のスマホが震えだす。 届いたメールを確認してみると、そこには案の定、デスクに座る自分の後ろ姿を写した写真が添付されていた。


 仕方ない奴め。私は立ち上がって、沼田の元へ向かった。


「ねぇ」


 声をかけると、嫌みな程に顔のいいアラフォー男が、こちらを見上げる。


「忙しいんだから、こういうの止めてほしいんだけど」


 向けられたスマホの画面に、沼田は首を傾げる。


「は? なにこれ?」


「何これって、アンタが今送ってきたんでしょ?」


「俺が? やらねぇよそんな事」


「嘘。だってこのアングル、どう見たってこの場所から撮したものじゃない」


 沼田は怪訝な表情を浮かべて、まじまじとスマホの画面を見つめた。


「でもこれ、送り主のところ空欄になってんじゃん」


「どうせそういうアプリでも使ったんでしょ」


「ねぇだろ。そんなアプリ。てかこれ、変なもん写ってるんだけど」


 不意に体を寄せられて、周囲の視線が気になる。


「変なもの?」


「ほら、ここ」


 写真には私を後ろ姿が映っている。私の奥には幾つもデスクが並び、働いている同僚達がいる。骨ばった男の手が、その更に奥、社内へ光を届けている窓の左上辺りをズームさせた。


 三十センチ程の窓。その隅には白い掌のようなものが。


 それを目にして、私は大袈裟なため息を漏らした。


「仕事しなさいよ。こんなもの作っている暇があったら」


「いや。だから俺じゃねぇって」

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