第89話 中学生と高校生の争い?

 二メートルくらい離れて歩く俺と百合香ちゃん。


「お兄さん、私」


 言いよどむ百合香ちゃん。


「お兄さんのことが嫌いなんじゃないです、ただ……」


「皆まで言わなくてもいい。なんていうか、分かるから」


 唇に、百合香ちゃんの唇の感触が残っている。どんな味だとか、どんな匂いだとか、詳細は一切覚えていない。今なおドキドキしている。ただ一つ、むにむにっと柔らかかったことは、唇にじわわっと残る感触が鮮明に思い出させる。


「俺が百合香ちゃんを捨ててないって分かっただろ? キスすることでそれを証明したかったんだ。本当は、ほっぺにしてあげようと思ったんだけど……」


「……へんたい……」


「ごめん……」


 なんだこの距離感は。いつもべたべたひっついてくる百合香ちゃんはどこへ行ってしまったんだ。


 十分くらい歩いて、屋敷に到着。


「ここに泊まることになって。田舎娘の祖父母のお宅なんだ。ホテルの予約はキャンセルしたから、百合香ちゃんは何も気にしなくていい」


 屋敷の広さに唖然とする百合香ちゃん。俺と同じ反応だ。


「ひろ……」


「ついこの間まで住んでたらしい。信じられないけど」


 その田舎娘。どこに行ったのか知らないが、姿が見えない。


「あ、峡介きょうすけさんお帰り」


「ただいま」


 俺がただ単に返事をすると、即座に百合香ちゃんが前に立ちはだかる。


「お兄さんにお帰りって言わないでください! 私のお兄さんなんですから」


 ダメだ、まだ嫉妬深いのが治っていない。飛固寝ひこねのゴミ捨て場で拾ってもらった恩人なのに。

 土間と座敷の上との間で、見慣れた百合香ちゃんの抵抗が始まる。


「別にいいじゃん、それくらい。百合香はキスしてもらったんだし」


 ……なんか、沙夜も嫉妬深くなってる?


「大体さ、嫉妬深いんだよ百合香は。挨拶とか誰だってするでしょ。バスの運転手にするのと同じ」


「私は運賃払ってるから挨拶しないって決めてます!」


「は? なにそれ、たったそれだけの感謝もできないとか。ねえ峡介さん、この子ヤバいよね」


 キッと鋭い目つきで俺を見つめる沙夜。普段は可愛いのに、今は怖い。可愛い子が怒ると怖い、ということか。


「ねえ、なんとか言って? 百合香のためでもあるんだよ?」


 何が「百合香ちゃんのため」なのかよく分からないが、ここで「はいそうです百合香ちゃんはヤバいです」なんて認めたら、また百合香ちゃんが一人で落ち込んで鬱々としてしまう。


「あら、どちら様?」


 いい所に来てくれたおばあさん、救世主様だ!


「私はお兄さんのお嫁さんになる者で……」


(……最後まで言わなかったな)


 初対面の人に堂々と宣言するかと思ったら、語尾が尻すぼみになった。


「将来のお嫁さん? 許嫁いいなずけ? fiancée《フィアンセ》? あらまあそれはそれは、めでたいことですわ。素晴らしいやないですか、ねえ沙夜ちゃん」


 沙夜は、去年この屋敷に来た際におばあさんに会ったことがあるという。かつて可愛かったであろうおばあさんだから、見た目、沙夜がおばあさんの孫のようだ。


「わたしはそう思わない。こんな嫉妬深い女、すぐ離婚だと思う」


 おばあさんに向かってタメ語。たった一年でタメ語ってすげえ。


「あらあら沙夜ちゃん、あんたも峡介はんねろうてるんやねぇ」


 ぎくっとする沙夜。目が飛び出しそうになった。その横で、にこにこと目を細め、仏のように微笑むおばあさん。


「フーッ」


「何威嚇してるんだ百合香ちゃん」


 威嚇をやめさせるため、ぽすっと頭をはたく。


「いたっ。何するんですかっ」


「威嚇なんかやめるんだ。猫じゃあるまいに」


 しかし、なかなか威嚇をやめない百合香ちゃん。こげ茶セミロング髪の頭を押さえつけて、なんとかやめさせようとするも無理。口を手でふさぐことを憚っているのは、ついさっきこの唇とキスしたから。


「仲がよろしいことで。ええことですわ。あたしは洗いもんするさかい、遊んでてな」


 ほほ笑みながら、流し場に立ち去るおばあさん。流し場が設置されている空間の奥には、大甕おおがめ二つが静置されている。左上奥の二段の棚には、いくつものおひつが並べられている。流し台はステンレス製ではなく、まさかの石製。石の色は灰黒色だ。


 本当に古い屋敷だ。広すぎて微塵も古さを感じないけど。


「お兄さん、私ご飯食べてないです……」


 俺の袖をくいくいと引っ張って、そう言い切る百合香ちゃん。


「そうなのか」


「何ウソついてんの。わたしとファミレス行ったでしょ。しかもわたしの奢りで」


「うっ」


「お兄さんは最低だー、とか、お兄さんのロクデナシー、とか言ってたくせに」


「ううっ」


 どうも真実のようで、肩を縮こまらせている。

 何が目当てだったのか知らないが、百合香ちゃんは虚偽の発言をした。


「そのくせ、『私はゴミです』とか言って、パンしか食べなかったんだよ? マジ意味わかんないって」


 うずくまって耳を塞いでいる百合香ちゃん。なんだか可哀想に思えてきて、頭をなでなでする。いつも通り、絹のようにサラサラしている。


「あれまあ、許嫁さん、パンしか食べてないん? 鮎はもう残ってへんけど肉じゃがは残ってるさかい、食べる?」


「に、肉じゃが⁉」


「旨いで~。っはは」


「食べたい、食べたいですっ」


 飢えた猫のようだ。もう目がキラキラ輝いて、肉じゃがのことしか考えていない。無性に可哀想に思えて、よだれを垂れ流す百合香ちゃんの頭を再度撫でる。ま、本当はサラサラを堪能したいだけなんだけど。


「……ムカつく」


 唐突に、座敷の上から物騒な言葉が。


「わたしもしたいのに、ムカつく。ムカつく!」


 刹那、土間に飛び降りる沙夜。何をするかと思えば




 ちゅううううううううっ





「⁉」



 百合香ちゃんの唇を吸った……


 土間に背中から倒れた百合香ちゃんは、何も言葉を発せない。百合香ちゃんに襲い掛かった沙夜は、貪るように百合香ちゃんの唇を自らの唇で吸い続ける。





 ぢゅううううううっ。 ぱぁ! ちゅうう、じゅるるるるーーっ、ぷはぁ!






 唾液が糸のように長く伸び、下になっている百合香ちゃんの顔に全部落ちる。



「ちょっと沙夜ちゃん、どないしたん」


 おばあさんも驚いたのか、流し場からいそいそとやって来る。


「喧嘩はのぞみらだけで十分や。もっと仲良うしなはれ」


「だってムカつくんだもん!」


「何をそんな大人げないことを。この子は中学生やのに、本気になってどうすんねんな」


「……」


 その瞬間、盾突たてつく沙夜の気勢きせいは完全にがれた。


 百合香ちゃんも無言になって硬直している。


 ここは一つ、俺が。


「あ、おはあさん。実はこの子、」


 事実を告げると、おばあさんは目が飛び出しそうな勢いで驚愕したのだった。

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