第22話 蝶野聡子
あっ、米田先生!」
「ああ、こんにちは蝶野さん」
鯰川さんと飲んだ翌日、出版社に出向いた帰り道、蝶野さんとバッタリ会った。
「お久しぶりですね!」
「はい、この前は動画ありがとうございました。とても参考になりました」
「そうですか。役に立てたのなら良かったです!」
「あと、これも良かったらどうぞ」
僕は鞄の中から小さな箱を取り出し、蝶野さんに渡した。
「何ですか?」
「ハンカチです。パーティーで僕が犯人に傷つけられた時、傷口をハンカチで押さえてくれましたよね?血でハンカチをダメにしてしまったと思うので、その代わりに……」
「ああ、ありがとうございます!」
蝶野さんはニカッと明るく笑い、僕からハンカチを受け取った。いつ蝶野さんに会ってもいいように持ち歩いていてよかった。
「あ、米田さん、これから時間ありますか?」
「ええ、ありますけど」
「実はこれから打ち合わせの予定だったんですけど、担当の人が急に用事が入ったとかで、しばらく時間を潰してくれって言われちゃったんですよね」
「なるほど」
「ですので、よかったらこれからお茶でもどうですか?」
蝶野さんの提案に僕は喜んで応じた。
目の前に置かれたショートケーキを蝶野さんは一口頬張った。蝶野さんは「くうう」と喜びを全身で表現した。
「美味しい。私、ここのショートケーキ大好きなんですよ!」
「それは、良かったです」
蝶野さんと一緒に入った店。ここは前に伊那後先生と一緒に来た「ヨルム」という喫茶店だ。
「エネルギーを充電して、少し回復しました」
そういうと蝶野さんはフウと息を吐く。
「お疲れですか?」
「ああ、はい。ここ何日か眠れてないんですよ。体重も落ちましたし……まぁ、ダイエットにはなりましたが」
蝶野さんはニコリと笑う。
「大丈夫ですか?」
「えっ?」
「いえ、なんだか無理してらっしゃるように見えましたので」
「……分かっちゃいます?」
蝶野さんはフォークから手を放す。
「原因は分かっています。たぶん伊那後さんが亡くなったからだと思います」
「伊那後先生ですか?」
「実は私、伊那後さんが死ぬ前にまた会ってるんですよ」
「えっ?そうなんですか?」
「はい。でも、たいした事は話していません。出版社を訪れた時、同じく出版社に来ていた伊那後さんとすれ違っただけですので。『調子はどうですか?』ぐらいの会話だったと思います」
「そうですか……」
「死ぬ寸前に会ったということで、そのあと警察に色々聞かれて大変でした。何度も何度も伊那後さんは、どんな様子でしたかって聞かれました」
「……大変でしたね」
同じく警察に事情聴取を受けた身として辛さはよく分かる。蝶野さんは「ええ、大変でした」と何度も頷く。
「でも、そのあとで思ったんですよ。もしかしたら、私が伊那後さんを殺したんじゃないかって」
その言葉に僕は驚いて目を見開く。
「どういうことですか?」
「いや、もしかしたら私があの時、伊那後さんともっと話していたら、伊那後さんは死ななかったんじゃないかって……」
「蝶野さん……」
「もしかしたら、伊那後さんは何かトラブルを抱えていたのかもしれない。あの時、私がそのことを聞けていたら伊那後さんは……」
蝶野さんはゆっくりと下を向いた。そんな蝶野さんに僕は「貴方のせいじゃありませんよ」と声を掛けた。下を向いていた蝶野さんの顔が上がる。
「もし、僕が蝶野さんと同じ立場でも、おそらく伊那後さんに詳しく話を聞くことはなかったでしょう。蝶野さんだけじゃなく、誰でもそうだと思います」
亡くなった人の話をもっと聞いていればとか、もっと構って上げられていればとか、亡くなった人の周囲にいた人間が必要以上に思い悩むことはある。
でも、それはどうしようもない。
仮に蝶野さんが伊那後先生ともっとよく話していたとしても、結果は変わらなかっただろう。伊那後先生は『白い大蛇』に殺されたのだから。
「ありがとうございます」
蝶野さんはニコリとほほ笑んだ。
「やっぱり、米田さんは優しいですよね。パーティーの時だって、伊那後さんを助けるために、たった一人で犯人に立ち向かって格闘するし」
少し、調子が戻ったのか蝶野さんは楽しそうに話す。
「格闘というか、一方的にやられただけですけどね」
僕が自嘲気味に笑うと、蝶野さんはブンブンと首を左右に振った。
「いえいえ、あんな中に飛び込んでいける方が凄いんですって。とても素敵でしたよ」
「あ、ありがとうございます」
なんだか照れくさくて、僕は自分の頬をポリポリと掻いた。
「それに担当だった灰塚さんもあんなことになったのにもう立ち直られて……とても強いと思います」
「……」
何とも言えず黙ってしまった。
「あっ、す、すみません。私ったら……無神経でしたよね」
「いえ、大丈夫です」
僕は笑顔を作るが、蝶野さんは気まずそうにしている。空気が重くなってしまったので、話題を変えることにした。
「蝶野さんは僕のことを優しいって言ってくれますが、それなら蝶野さんだって優しいですよ」
「私が……ですか?」
「はい」
僕も蝶野さんに倣い、目の前に置かれたチョコレートケーキを一口頬張った。苦く濃厚な甘みが口の中いっぱいに広がる。
「あの時、僕の傷をハンカチで押さえてくれた後、倒れた犯人も助けようとしていたじゃないですか」
犯人の根津が倒れた後、真っ先に駆け寄ってくれたのは蝶野さんだった。
彼女は僕の傷口をハンカチで押さえてくれた後、今度は犯人の根津に駆け寄り、その体を揺すった。「大丈夫ですか?」と何度も声を掛けながら。
「普通、倒れている犯人を心配しようとはしませんよ。蝶野さんはとても優しい人だと思います」
「いやぁ、はははははっ」
蝶野さんも僕と同じように頬をポリポリと掻く。
「と、ところで米田さんって彼女とかいないんですか?」
恥ずかしさに耐えられなくなったのか、今度は蝶野さんが強引に話題を逸らした。
「いや、いませんね」
「そうなんですか?米田先生、優しいしモテそうですけど」
「そんなことないですよ。今まで彼女なんてできたことありません」
自分で言っておいて少し悲しくなる。
「蝶野さんこそどうなんですか?お綺麗ですし、恋人がいらっしゃるのでは?」
「いえいえ、いませんよ」
蝶野さんは大げさに両手を振る。
「今は、仕事が恋人って感じです」
「そうですか。僕も同じです」
「あ、でも、最近友人ができたんですよ!」
蝶野さんの笑顔がさらに深まった。
「へぇ、それは良かったですね。どんな人なんですか?」
「私と同じ女性なんですけど、とても素敵な人です。バリバリ仕事ができるって感じで。尊敬しちゃいます」
蝶野さんの頬がポッと赤くなる。よほどその人のことが好きなんだな。
「私、悩みがあったんですけど、その人からあるものを譲ってもらったら、悩みが一気に解決したんですよ!その人には本当に感謝しています!」
好奇心から聞いてみる。
「何を貰ったんですか?」
「それは……秘密です」
蝶野さんは人差し指を唇に当て、魅力的なウインクをした。
「そうですか。それは残念」
本当はそこまで聞きたいという訳ではなかったが、大げさに肩をすくめて見せる。
「なんにせよ、素敵な出会いがあって良かったですね」
僕は心の底から祝福した。持論だけど、人生が幸せになるかどうかは出会いで決まると思う。いい出会いは人生を豊かにし、悪い出会いは人生を暗くする。
友人でも恋人でも自分にとって良い人に出会えたのならそれはとても幸せな事だ。
「ありがとうございます」
蝶野さんは今日一番の笑顔を見せた。
「米田さんにもきっと素晴らしい出会いがありますよ!」
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