第四話 もう、死にたいよ【一花】

 駅の近くで同級生4人に物陰に連れ込まれた。囲まれて逃げ出すこともできない。

 一花いっかが動揺していると、茶髪のギャルが前に出る。


「あんたさ。鏡桐きょうどう君に声掛けられて調子に乗りすぎじゃない?」


 やはり見られていた。心臓に冷や水を浴びせられる。


「あんたみたいなブスが調子こいているとムカつくのよね」


 彼女たちの視線は怖い。笑顔を貼り付けているのに、目だけ笑っていないのだ。


「今後鏡桐君に話しかけないって言うのなら許してあげる。もちろん向こうから話しかけてきても答えちゃダメよ。無視すんの」


 母の声が蘇る。


『絶対に抵抗しちゃダメよ』


 呪縛アドバイスが咽喉に絡まる。


『抵抗したらエスカレートしていくんだから』


 抵抗した覚えなどないのに、どんどんエスカレートしていった。


『耐えて耐えて耐えぬくの』


 ずっと耐えてきた。しかし、この気持ちを捨ててまで守りたいものはなんだ。母の言いなりになっていた自分か。虐めに文句を言わなかった自分か。死にたいと言っていた自分か。


「嫌です」


 一花は透久凪すくなの宇宙色の瞳を、切れ長の双眸を、端正な顔立ちを、見上げるほどの背を、手首の傷を浮かべていた。ただそれだけで、抵抗の言葉が躍り出た。


 女は眉をぴくぴくとさせている。


「ああ!? なんだって!?」


 声を荒げ、突き飛ばされる。よろけて倒れる。


「そうやっていちいちオーバーリアクションなのもムカつく! なに? そうやって気を引いたの?」


 痛みに弱気な自分が戻ってくる。肩が震える。小さく首を振った。仰向けになった一花にギャルが馬乗りになる。ポケットからなにかを取り出す。


 ——キチキチキチ。


「い、嫌!」


 動くことはできない。両腕は他の生徒にガッチリと押さえつけられていた。


「こうすれば話しかけられないでしょ」


 声が出なかった。肺や心臓やあらゆる臓器が収縮していくのを感じた。

 ギャルはカッターの刃を一花の顔に立てて、ナメクジのようにわせた。顔の所々で熱を感じる。涙と鼻水が溢れ出るのを止められなかった。


 ギャルは満足げに頷いて立ち上がった。


「ちょうどいい機会だから自分のブスな顔を鏡でよく見たら?」


 ぎゃはははっ。と笑い声を上げて去っていく。


 もう会えないのだろうか。会ったらどんな声を掛けられるだろうか。自分もこんな目に遭うのではないかと恐れおののくのではないだろうか。

 一花は、一つ一つ沈殿していく惨めさを殺したくなった。


 胸ポケットに入っていた小瓶を取り出し、一粒を掌の上に載せる。薬は宵の色をしており、粉っぽくてすぐに溶けそうな見た目だった。それを飲み込む。


 瞬間。


 頭の中に見たこともない文字が浮かび上がる。だというのにそれをどういうわけだか理解できた。体温が下がり、涙も鼻水もスッと引く。

 意識にミントが通り抜ける。姿すら見えない遠くの電車の走行音が、すぐそばの花の息遣いが、壁を隔て向こう側の散髪屋の髪を切る音が、明瞭に——だがうるさくはなく、透明をまとって鼓膜を通り抜ける。空気には色が付いていた。煙のようにふわりと漂っている。ピンク色の煙に鼻を近づけると、香水の甘ったるい匂いがした。数秒を置いてピンクの煙に包まれた、白いタイトスカートのOLが前を通り過ぎて行った。それを目で追ったわけでもないのに、その後ろ姿——足の動きに合わせて煽情的せんじょうてきに傾くくびれを確認できた。視野が広がっていた。それこそ360度見渡せるような感覚。もうずいぶん先に行ってしまった彼女らの背中のブラウスに付いた糸屑すら確認できた。


 魔女になった。


 一花はそう確信していた。


 ギャルに憎悪と殺意を向ける。同じ目に遭えばどれだけ心が晴れるだろう。

 ただそう念じただけだった。

 ギャルの近くに居た三人が一斉に彼女の顔に向けてバッグを叩きつけた。


「ぎゃっ!」


 彼女は頭から倒れるが、鞄は張り付いたままだ。


「なにすんの!?」

「バッグが勝手に!」

「んなわけ!」

「でもあんただって自分のバッグ顔にくっつけてるじゃん!」


 彼女は自分のバッグさえも自分の顔にくっつけていた。


「え、これ、なんで!?」


 慌てて起き上がろうとした彼女のポケットからカッターがするりと抜けだし、顔面に吸い寄せられるように突き刺さった。


「ぐぎゃ!」


 刃は出ていない。それでも突き刺さるほどの勢いだった。血がダラダラと流れ出す。


「痛っ! なにこれ!? ぐぇ!」


 彼女は何者かに引っ張られるようにズルズルとアスファルトを引き摺られる。頭が向かって行った先は線路。遮断機側に足を向ける形で、レールにピタリとくっついて離れなくなった。

 しばらく唖然あぜんとして見ていた三人だったが、我に返ってレールに張り付いた彼女の手足を持った。


「助けてえぇ!」


 涙と鼻水をダラダラと零しながら懇願こんがんする。


「いまやってるでしょ! ってかあんた、冗談でやってないでしょうね!」

「やるわけないでしょ!」


 ——カーンカーンカーン。


「ひっ」


 息を呑む音が聞こえた。

 遮断機が下り始める。


「ちょ、死んじゃう! 早ぐ! 早ぐじで!」

「やってるって!!」


 助け出そうとする方も額に汗をかいて必死だ。


「嫌、嫌ぁあ!」


 ——ぱあぁぁん。ホームに入ってくるときに鳴る警告音。

 ギャルの目には、迫りくる電車が映っている。その向きで顔が固定されていた。

 一人は遮断機横に取り付けられた緊急停止ボタンに走り出す。一人は悲鳴を上げながら逃げ出す。最後まで残っていた一人は足を掴んでいた。茶色いローファーがすっぽ抜けて、尻餅をいた刹那。


 ——ガタンガタンガタンガタン——


 頭蓋骨とうがいこつが粉砕され、眼球が用水路のヘドロに突き刺さる。胴体は宙を舞い、尻餅を搗いた女子の上にドシャと言う音を立てて重なった。まだ頭を失ったことに気付いていない心臓の脈動と共に鮮血が吹き出す。


「キャ——ゴボゴボ」


 叫びだそうとした彼女の咽喉のどおびただしい量の血がべっとりと張り付き、うがいのような音を奏でた。


 鮮やかな赤い煙で、夕映えは満たされた。






 なにをしたのかはよくわかっていなかった。恐らくは魔法が発動した。しかしそれがいったいどうやって彼女たちに災いを与えたのかはわからない。

 心中で自分を責めると頭の内側に声が響く。


『あなたは悪くないのよ?』


 声の色はわからない。ただそれでも誰なのか判別ができた。これはニュクスのものだ。


『悪いのは全部あいつらよ』

(でも殺すことなんてなかった)

『殺さなければ殺されていたわよねぇ』

(いくらなんでもそこまでは)

『あらぁ、言い切れる? どんどんエスカレートしていったんでしょう? 顔を切り刻んで笑っていられる奴らよぉ?』


 魔女の言うことは的を射ている。


『でもまあ、あなたの罪悪感もわかるわ。どうしてもやりきれなくなったら渡した魔薬を飲みなさい?』

(どうなるの?)

『うふふ。魔法が使えるし、胸に刺さった罪悪感を消し去ることができるのよ。悩む必要はないのよ。お母さまや虐めっ子の奴らより、自分の思いを優先したアナタには、人を超えて魔女になる資格があるの』

(魔女、私が、魔女)


 いつの間にか電車から降りていて、力が入っているどうかもあやふやな脚で改札を抜けていた。先ほどまでの冴え渡った意識は、ニュクスの声と共になくなっていた。頭にモヤが掛かっている。広い視野も、透明な音も、見える匂いもなくなっていた。

 ふらふらと歩いていると、誰かとぶつかった。


「どこに目ぇ付けてんだぁ?」


 50代ぐらいの禿げた男性だった。男は唇を湿らせながら、いきなり一花の胸を揉んだ。


「気ぃ付けろよ」


 トンと肩を小突かれ、よろよろと後退する。

 突然のことに意識が置いて行かれる。なぜこんな仕打ちを受けなければいけないのか。意味がわからない。意味がわからないが、この意味がわからないのはどうしてかわからない。もしかして頭に掛かったモヤのせいだろうか。払わないと、モヤ。


 ほとんど無意識的に薬を飲み下していた。


「なんだぁ?」


 一花の視線を男が捉えていた。ぼう、と見つめ返す。


「顔におもしれえ落書きしてるし、もしかしてこういうの抵抗ないのかい嬢ちゃん」


 グヒヒと下品な笑いを浮かべながら近づいてくる。


 なぜ男の人は胸を揉むのだろう。揉みたいと思わなければ、この人はあんなことをしなかったのではないだろうか。と、やけに冷静な思考が渡る。

 すると急に男の股関から煙が上がった。毛が焦げる臭いが鼻を突く。男も気付いて自分の真下を見る。


「ええ!? なんで!? あちゃっ、あちぃ!」


 男は自分の股間をバシバシと叩いて、ファスナーを開けた。同時にサッカーボール程の炎が立ち昇った。


「あひいいい!」


 衝撃で倒れる。男の陰茎は焼けただれ、焦げた服にビタリと張り付いていた。


「きゃああ!」


 グロテスクな光景に思わず悲鳴を上げる。そのまま背を向けて走り出した。

 いまもまだ魔法を使えるときの感覚が残っている。二粒飲んでしまったのかも知れない。また魔法を使ってしまうかも知れない。


 息が上がるまで走り続けた。気付けば暗闇。人通りもない、生活排水の流れる音と用水路の生臭さだけに覆われた、狭い道に居た。


 ここはどこだろう。


 来た道を引き返そうと振り返ったとき、見覚えのある顔が街灯に照らされた。


「透久凪君」


 彼は一花が履くローファーよりも大きいナイフを持っていた。それを鼻の高さまで持って行き、立ち昇る赤黒い液体を見ながら眉をひそめた。


「こいつが反応するということは、お前が魔女なのか?」


 魔女。という言葉に動揺する。自分が人を傷付けたと知ったら、彼はどんな顔をするだろう。

 透久凪は剣を傾けた。


「ごめんなさい」


 踵を返しながら放った一花の声は震えていた。


 とにかくここから離れないと。そう思うと、体が軽くなった。小さなつむじ風のようなものが両足の下に発生して体が浮いていた。


 なぜ魔女だと言い当てられたのか。あの剣はなんなのか。様々な疑問を置き去りにして、闇の中を駆け抜けた。


『ああ、ようやくだわ』


 脳内にさっきよりも大きい声がガンガンと響く。


『いただきまぁす』


(え?)


 一花の意識は、夜の闇よりも深い、月明かりさえ届かない場所へと沈んでいった。

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