46.『輝く日の宮』の消失

「梛さまとうとうやりました! 中宮さまがご懐妊なさったのです!」



 香からそう弾んだ文が来たのは寛弘五年の三月後半のことだった。



「左大臣さまも中宮さまのための御修法や御読経を早速お命じになりました。四月には土御門第への御退出もあるでしょう。私も付いていかなくてはなりません。出来たばかりの物語をどんどん聞かせて欲しい、とのことです。

 左大弁どのは何でも夢占をしてもらったところ、男皇子が生まれる、ということでした。本当かどうかはともかく、喜ばしいことですね。

 この所、私の周囲では喜ばしいことばかりです。

 そうそう、父が五位の左少弁蔵人に任じられました。『お前のおかげだ』と涙ながらに言ってくれた時には私もさすがに笑みを堪え切れませんでした。だって父はその昔『お前が男だったらなあ』と散々言ったのですよ? でも私が男だったらどうでしょう? こんな人付き合いが苦手な私が出世など望めませんよ。今の私があるのは、私が物語を書けたからです。そして男だったら物語で名を馳せることなどできないでしょう。父にしたところで、文人として有名ですが、ずっと大した出世はできなかった訳ですから。

 弟も去年は蔵人に任じられたのですけどね、どうも職務が合わないみたいで、浮かない顔をしていると父から聞きました。それこそ私が男だったら、そうなっていた姿ですよ。そして私は毎日鬱々として日々を過ごして、いつか食を断って死んでしまうのがいい所ですね。

 そう言えば、左大臣さまは中宮さまの御出産の折にはぜひ私に女達の周囲の記録をとって欲しい、と仰いました。無論殿も普段から日記は付けていらっしゃるのですが、男の方はさすがに女達の集まる場所に居続けることはできません。ましてや産所には。私にはそこで逐一見聞きしたことを書き付けて欲しいとのことです。今後の手本にするべくと。

 確かにそうですね。左大臣さまは今後中宮さまの妹君達も次々に入内させるおつもりでしょうし、無論その都度お産のことも考えねばならないでしょう。前例は必要だと思います。

 普段大して物を語らなくとも構わない、という特権を預かっている以上、私はこの役目にはしっかり取り組むつもりです。それにこの目で見たことは全て物語に役立てることができるのですから。

 無論きちんとしたものを殿に提出するつもりですが、梛さまにもお伝えしますね」



 さすがにこの文に、梛は口を曲げた。


「確かに香さまにはめでたいことばかりですが、梛さまには決してそうではないのに、無神経ですよね」


 松野も散らされた文を見てそう言った。

 そうなのだ。梛にとっては―― というより、中関白家にとってだが。

 伊周は正月二日、土御門第における左大臣家に予定外の客として訪れた。そしてそのまま中宮の大饗に参加した。

 そうせざるを得ない雰囲気がずっと彼の周囲に漂っていた。現在の為政者に対し、楯突く気はないのだ、と態度で示さなくてはならない。寛弘二年に曖昧な地位は示されたものも、その後の処遇に変化は無い。何かしらの変化が欲しかった。

 その日々の結果だろうか、十六日、踏歌の節会の日に帝は「忌みが無い日だから」と伊周を准大臣とし、封戸を与えた。

 これはまあ、中関白家にとっては吉報だった。

 だがこの翌月、媄子内親王の体調が悪くなった。左大臣も度々見舞いに出向いている。


「定子皇后さまの忘れ形見の宮様のことなどどうでもいい、と香さまは思っているのでしょうか」

「どうでもいい…… まあどうでもいいでしょうね。たぶん眼中に無いのよ」



「そして私にとって何よりも嬉しいことがあります。

 中宮さまが御出産で宿下がりされている間に、土御門第で『源氏の物語』を沢山書写製本してくださると仰るのです。そう、紙も巻ごとに合ったものを使い、字の上手い女房に清書させ、とりあえずは『桐壺』から『藤裏葉』までを。

 ただ、左大臣さまから一つ条件がある、とのことです。『輝く日の宮』は巻内に入れてはいけない、と。どうしても嫌だというなら、製本の計画自体許さない、とのことでした。

 その位なら、と私は応じました。

 『桐壺』と『若紫』の時間の空きは並びの巻である『帚木』『空蝉』『夕顔』『末摘花』で埋めれば良いことです。出てくる女君に関しては、『若紫』にほんの少し書き足せば良いのです」



「そのくらい?!」


 梛はこの文の下りで驚いた。


「何ですって、『輝く日の宮』は写本されないのですか?」


 松野も驚いた。


「困る話だから左大臣どのが怒るのかもしれないとは思っていたけど……」

「香さまはその条件をお呑みになったのですか!?」

「らしいわよ。この様子じゃね」


 さすがにこれに関しては梛は文章を書く人間として、黙ってはいられなかった。

 慌てて文を返した。「自分の書いたものが無かったことにされても構わないのか」と。

 するとその日のうちに返事が来た。



「梛さまご心配ありがとうございます」



 いや、心配をしているのではないのだが。慌てて書いたのだろう、ひどく飛び跳ねた文字に梛は目を落とす。



「左大臣さまの方にもご都合というものがございます。あの『輝く日の宮』はふとどきな巻だ、とのことです。

 では何処が、と梛さまが更に疑問を持たれて再びの文をおよこしになると何ですから、その辺りのことを。

 当初から『源氏の物語』は左大臣さまのお気に染まないものです。

 実のところ、源氏の君が藤壺女御と密通したということは左大臣さまにとってはさほどのことではございません。そんなことをしているのは『源氏』の君なのですから。

 しかしその源氏の君が一度は不遇になった辺りで左大臣さまはお顔をしかめられるのです。『何かに似ていないか』と。

 貴人が政争に負けて遠流の身となるということに関して、左大臣さまは幾つかのことを挙げました。安和の変、そして最近の中関白家。その状況に似ている、と。

 無論私は、あえてその状況を書いた訳ではありません。古今の物語には良くあることです。唐の国のその昔にも。それは梛さまもご存じでしょう? 本当、よくあることです。

 しかもその源氏が繁栄していく…… しかも中宮を二代も続けて。いくら数代前の御代のつもりで書いていると言っても「今」あり得ないこと、あっては困ることを書かれるのは、ということです。

 藤氏の氏の長者として、その様な内容はこれ以上広める訳にはいかない、と左大臣さまは『藤裏葉』まで書いた辺りで仰いました。

 そこをお救い下さったのが中宮さまでした。こう左大臣さまに仰ったのです。『この後源氏には不幸が訪れますのよ』と。私は驚きました。

 まだ『若菜』を書いてはいない時です。私は中宮さまに『六条院に女三宮という女性が入ります』とは申し上げておりましたが、それ以上のことは口にしておりません。

 そして中宮さまはこう続けられたのです。

『源氏の一族にはうわべ栄華があったとしても、その内実には不幸が待っておりますのよ。藤氏の私どもはそれを見て楽しむ。それで宜しいではないですか、父上』

 私はまだこの時点で『若菜』でどんなことが起こりうるのか想像はしておりませんでした。ええ、幸福なのか不幸なのかも。

 とにもかくにも、中宮さまはお父上をそれで押さえ込み、藤壺女御と源氏の密通があからさまに書かれている『輝く日の宮』のみを削除することでお話をまとめられました。

 左大臣さまが退出された後、中宮さまは仰いました。『私ができるのはこの位よ』と。中宮さまは無論現実の源氏を嘲笑うおつもりは全く無いのです。

 そしてこう続けられたのです。

『無論あの巻が削られてしまうのは残念よ。だってあの巻を読んで、私はあなたを呼び寄せたいと思ったのですもの。これまでの物語で一番私の胸をときめかせたのよ。でも全てが製本されないよりましだわ。あの物語は後々まで残るべきよ。でも書き手のあなたにとっても不本意かもしれないわね』

 そう仰って下さって何と嬉しかったことか。

 正直私自身は『輝く日の宮』……いえ、今まで書いてしまった分に関しては、どう扱われようとも構わないのです。どうせ人の手に渡った時点で、私がどんなことを思って書いたか、など正確に伝わる訳がないのですから。私と同じ源氏の姿、紫の上の姿を瞼の裏に浮かべることなどできないのですから。私は書いて自分の中から出し切ってしまった。最低それだけで充分なのです。

 ただ今これから、書く、書けるという保障さえあるならば。紙と筆と墨が私の思う存分使うことができて、新たに浮かぶ物語を好きなだけ生み出すことができるなら、過去に吐き出したものが多少損なわれても私は構わないのです。

 そうそう、昔梛さまが定子皇后さまのもとでされたという、『うつほ』の男の品定め。あれと同じ様なことが今現在、私の『源氏』であちこちでされている模様です。

 私の最も好きな女君に対し『このひと嫌い』などと言われていることもある様です。けどそんなことに構ってはいられません。私はただ前を見るだけなのです。

 そう、中宮さまは源氏が不幸になると仰いました。実のところ確かに、これからじわじわと不幸になっていきます。誰もが。

 そして私は『源氏が』ということではなく、私の作った彼等がじわじわと不幸になっていくところをそれこそせせら笑っているのです。

 奇妙な趣味だと思いますか? 梛さま。

 でも私はこういう人間ですので、どうしようもありません。きっとこの先もう、皆様がご期待する様な華やかな物語など一切作れないのかもしれません。

 それも良いでしょう。ともかく私は私の中で生まれて動き出す彼等を外に出してやることしかできないのですから。

 そして私は彼等を思う存分出してしまわない限り、上手く息ができないのですから」

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