35.和泉式部の日記を読んだ香の反応
さて和泉式部の日記を読んだ香からは即座に感想の文が舞い込んだ。
*
「今まで凄く知りたかったことが一切合切書かれている草子です。梛さまありがとうございます!
中宮さまの女房の赤染衛門の君から流れてきた、ということですね。
そう言えば梛さまご存じですか?
何でも和泉式部さんは、衛門さんから叱られたのですって。と言うのも、あの方々、親戚であるそうで、前々からお付き合いがあった様です。
今回の出来事と、それ以前からの夫君との仲が上手くいっていないことについて、歌の取り交わしもあったのです。
「そんなにあちこちよそ見をしていないで」と詠んだ衛門さんに、式部さんは「あのひとも別に恨んではいないようですわ」と開き直っている様な感じが伺えます。
それで「日記」の方ですが、凄く凄く凄く参考になりました!
ただ、色んなことを結構露骨に書き過ぎているとは思うのです。たとえば車の中で睦み合ったこととか。
でもそういう場面も現実にはあるのですね。そういう意味ではすごく参考になります。まだまだあの方々からは目が離せませんわね。
ああそこで、一つこの日記で、思いついた物語があります。
まだ宮様が式部の君をそれ程の女ではない、と思っていらした頃、月夜に連れ出す場面がありますね。何か使えそうだな、と」
*
梛は思わず苦笑した。確かに自分も場面一つ一つに興味深さはある。しかし即座に「使おう」とはさすがに梛は思えない。この辺りが実に香らしい。
この年、香は「並び」の巻を二つ書き上げている。
「帚木」「空蝉」という題名をつけた二つの巻は、「輝く日の宮」と同じ時期の話らしい。源氏の近衛中将時代、若き日の話だ。
「けど以前とはずいぶんと形が違いますね」
松野はそう感想を述べた。
「『帚木』は殆ど男達の体験談ですね。何処からこんな話を仕入れたのでしょう?」
「あのひとの父君は真面目な方だから…… 弟君かしら? 大人しそうな人に見えたけど、あれからどうしているのかしらね」
香の弟、惟規は未だこれといった位も職も与えられておらず、学生の様な日々を送っていると梛は聞いている。そもそも、父為時すら任官にはずいぶん苦労したのである。突出した才能がある訳ではないその息子なら尚更、だ。
生活に困るということはないだろう。為時が越前守をしていた時の財の蓄積がそれなりにある。だが一人の貴族の男としては、やや所在ない毎日を送っているのではないだろうか。
「どうでしょう。……でも香さまと多少通じるところがある性格でしたら、何かしらの役職についてもちょっと……」
「お前それはちょっと失礼よ」
そう言いつつも梛は軽く笑った。
「でも暇なら暇なりに、文人仲間とあれこれ色んな女性の話はするかも」
「それをまた香さまがお聞きになって、物語に書き留めた、ならあり得ますね」
確かに、と梛は思う。弟に対してなら、彼女も容赦なく聞けるだろう。
「それにしても今回の香さま、何か辛辣ですわね」
それは梛も思った。「帚木」は物語の当初からいきなり「光源氏と名ばかりは大層だが」「交野少将からは笑われただろうよ」などの言葉が登場する。
そしてその後が「女の品定め」であり、その後にいきなり方違えで泊まった家の人妻を襲ってしまうのである。ただしその後、源氏は彼女からひたすらつれなくされる。仕方がないから、身代わりに彼女の小さな弟を側に置く。
その続きである「空蝉」はその女を再度訪れるが、女は着ていた小袿を脱ぎ捨てて横に寝ていた継娘を残して逃げる。源氏は仕方がないとその娘を一晩過ごす。逃げ通したことでその人妻は源氏の心に残る……
「けど、ねえ」
梛は首を傾げる。
「あまり後味が良い話じゃないわね」
「衣一枚脱ぎ捨てて逃げる女を『空蝉』とたとえるのは綺麗だと思いますよ」
仲間内ではそれなりに好評だった。特に「品定め」の辺りに関しては「男は確かによくそういう話をしますよね」「それしか話題がないのかしら」といった感想が多かった。
ただその一方で「どうしてこんな話題を持ち出すのかしら」という感想もあった。
「光源氏もただの男、と言いたいのでしょうかね」
「とすると」
言いかけて梛は口をつぐんだ。既にこの「光源氏」はその昔、仲間内で構想した「光君」とは違うものになっているのではないか。ふとそう感じた。
*
そしてまたしばらくして「夕顔」という話が手元にやってきた。
「梛さま、これ……」
一緒に読んでいた松野はある場面に差し当たった時、思わず顔を上げた。
最初がまず五条、という場所を選ぶことで、雰囲気のまた違った物語であることを思わせた。
そしてまたそこで出会うのが「中の品の女」。どこかふわふわと掴み所のないこの「夕顔」の君は……
「和泉式部の君と似た印象だわ」
「ええ私もそう思いました。それだけじゃありませんよ、このひと達『どこか気楽なところ』へわざわざ出かけるんじゃないですか」
「そうよ、それって」
あの香が興味深そうにしていた場面ではないか。
やがて夕顔の女君は、物の怪にとりつかれて死んでしまう。しかもその死は隠されなくてはならない。
「作り方は面白いというか、前の長い話とは違って、短い話としてぴりっと決まっているわ。六条の御息所に通っている時の話だから、物の怪を出しても何となく納得できるし……」
香は一回りして感想が戻ってきた後に梛にこう伝えていた。
*
「夕顔の話は、以前中務宮さまのところに仕えていた時に聞いた話に、先日いただいた和泉式部さんの日記にあった場面を彩りとして加えてみたものです。どうですか?
単に物の怪にとり殺された話だけだと少し弱いと考えていたのです」
*
その文を見た時、梛は思わずため息をついた。
「この物語を見て、和泉式部さんはどう思うのかしら……」
「そうですね。書いた本人は確実に本歌にされた、と気付くものですし…… 使われて光栄だ、と考えてくださるといいのですが…… 香さまはそういうことは考えないのですか?」
「考える人だと思って?」
苦笑いを浮かべる梛に、松野は黙った。
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