33.香を出仕させる一番の条件
秋のある日、藤原行成が梛の元を訪れた。
「実は今日は、左大臣どののご要望を『姉君』にお伝えに」
彼は梛より年下の「お友達」であることをいいことに、時々彼女を「姉」と呼んだりする。
彼はこのとき三位の参議であり、敦康親王家の別当を勤めている。
帝と左大臣、双方の信任を得ている彼は、中関白家の元女房に過ぎない梛からすれば、軽口を叩くことができる立場ではない筈なのだが、行成の態度はずっと変わらない。
梛は彼にとって、あくまで楽しい「姉君」であるらしい。もしくはそうあって欲しいと願っている様だった。
一度だけ、彼の方がその立場から引き下がりそうになった。
かつて宮中で彼は、藤原実方と和歌に関する議論が白熱してしまったことがある。その時かっとなった実方が杓で行成の烏帽子を落としてしまった……
この事件をきっかけに、実方は一条帝の怒りを買い、遠国陸奥守にされてしまった。
行成自身は、実方がそこまでされるとは考えていなかった。自分が我慢すれば済むと考えていた。だが起きた結果に彼は驚き、そして梛が悲しむだろうと思った。当時実方と彼女が多少の関係があったことは彼も知っていたのだ。
だから「お友達」でいるのは心苦しい、と。これまた正直に梛に伝えてきた。
だが梛は行成を失うのは嫌だった。実方が居なくなった上に彼も自分の周囲から去ってしまったら淋しさが倍になるではないか。そういう意味のことを伝えた。
すると彼の方から謝意と「これからは自分を弟と思って頼って欲しい」と伝えてきた。ありがたくも頼もしい弟だ、と梛はそれ以来思っている。
そんな「弟」が左大臣道長の使いでやってきたという。いつもの私的な訪問ではないらしい。
「二つ、姉君にはお願いがあるのですよ」
差し向かいになった梛に、率直かつ穏やかな口調で行成は話を切りだした。
「一つは、姉君の持つ草子を全部お貸し願いたいということ」
「左大臣どのが?」
「左大臣どのが、様々な種類の本を集めていらっしゃるのです。姉君の元にはこの都中の仮名物語が集まってくるのではないかと思いまして」
「物語の方でしたら、家中に散らばっていますけど、まとめればそれなりの数にはなりましょうから用意させますわ」
「姉君の草子の方は?」
「『ものづくし』に関しては、最近一応まとめ終わりましたの。それで宜しければ。まだ何処にも回しておりませんわ」
「それは嬉しい。文章のまとめとは言え、新たなものを私が最初に読むことができるのですね」
「大して以前のものから増えてもいませんし、代わり映えもしませんわ」
「いえいえ。最近の宮中の女房達はどうもあの頃の姉君達の様に機転の利く者達ではなく、少々物足りなく思っておりますので、少々あの頃を思い出そうとも」
行成はあっさりと言う。梛はまとめている方の「思い出づくし」の方は、彼にはちゃんと先に見せようと思う。
「ああ、それと最近女房達に評判の『源氏の物語』はございますか?」
「評判なのですか? 宮中の方々にも」
「ええたいそう。ただ、なかなか全巻揃えることができなくて皆惜しがっております」
ああ、と梛は軽くうなづいた。
「左大臣家の方では全巻揃ってはいないのですか?」
「中宮さまの元の女房でも全巻揃えるのは難しいらしいのですよ。で、彼女達から伝え聞くところによると、作者からあなたにまず回っているらしい、と」
梛の物語仲間達には「藤裏葉」までの巻は全て回っているはずだ。
ただ、その後何処をどう回ったか、写されたかまでは判らない。途中まで見て写しても、後に機会を失った者も「この巻はつまらない」と飛ばした者もあるだろう。
中宮女房には誰か物語仲間は居ただろうか? 梛は思い返す。確かに直接の知り合いは居ないが……
「もしや、衛門の君でしたか? そう話されたのは」
「ああそうそう。赤染衛門です。土御門の奥方の元から、最近中宮さまの方に時々行かれることもあり」
成る程、彼女ならその辺りの情報にも強いだろう。
「で、この際全巻まとめて書写されたいのではないでしょうか」
まとめて。この辺りが梛はひっかかった。中宮のもとにはそれなりに既に集まっている筈だ。わざわざまとめて、というならば。
「間近なのですか? 妍子姫の入内は」
行成は黙ってうなづく。
「用意は着々と調いつつあります。とりあえずは亡くなられた前尚侍の後に、と。そこで姉君にもう一つお願いがあるのです」
「何でしょう?」
ほらきた、と梛はやや身構えた。
「妍子姫にお仕えする気はございませんか? また女房として」
梛は少し驚いた。女房仕えの話は何処かから来るかもしれない、と思っていた。だがそちら側からか。中宮ではなく。
「中宮さまの方ではないのですね?」
やや意地悪かもしれない、と思いながら梛は問いかけた。行成は苦笑する。
「さすがにそれは」
「私は定子皇后さまの元で名を馳せすぎましたか」
「そうですね。さすがにそれはあなたのためにもあまり良くない。ですが清少納言という女房は勿体ない。ですから違う後宮で、と左大臣どのもお考えの様です。その方が姉君も気が楽ではないかと。もっとも中宮さまにはどなたか側に置きたい方がいらっしゃるらしいのですが」
「と言いますと?」
「その『源氏の物語』の作者ですよ」
行成はそう言いながら、軽く梛の元へ膝を進めた。
「姉君、お教え下さいな。この作者はどんな方なのです? 秘密にしていないで、この弟にはお教え下さいな」
「別に秘密にしている訳ではないのですよ。ただ問われることもなかったのです」
それは嘘だ。梛は仲間内からここ数年作者の名前を問われ続けている。だがそれは言わない。
仲間達が梛の身辺を調べて香に行き着くことに関しては見逃した。「前越前守の娘」「故山城守の妻」が作者だと勘付いた者も居る。ただ当の本人にぶつかろうとする者が居なかったので、結局は判らないままである。
「形代の姫君」の段階で、源経房に話したことはある。彼経由で香の夫、宣孝に伝わったかもしれない。だがそれ以上の話は聞かない。
行成は彼等から聞いている可能性はある。だがとりあえず聞きたいのかもしれない。
「では問いましょう。『源氏の物語』の作者はどなたですか? 左大臣どのも知りたがっているんですよ」
左大臣が知りたがっているなら、もはや隠す必要もあるまい。梛は思った。
「前越前守、藤原為時どのの娘です。中務宮具平親王さまの元では『藤式部』という候名をもらっていたそうです」
「ほう、中務宮さまの元で。ではそれなりに宮仕えの経験はあるのですね」
「あることは、ある様ですが……」
梛は口を濁す。
以前来た文から察するに、香は宮仕えには向いていない。家の外で人と関わることを極端に面倒がっている。――もしくは怖がっている。
しかしその一方で、彼女は外の世界を見たがってもいる。矛盾する様だが、その二つが香の中には共存している。
「それではどうですか、彼女を誘っても構わないものでしょうか」
「構わないと思います」
誘ってみる分なら。その上で判断するのは香自身だ。それに当人も宮中の生活を見てみたい、とは思っているだろう。全ては物語のために。
「そうですか。ではその場合、藤式部の君を出仕願うにはどんな条件が一番有効だと、姉君は思いますか?」
「条件?」
行成ははい、と言って笑顔でうなづく。
「例えば父君や弟君の地位とか」
梛は考える。香を出仕させる一番の条件とは。
「そういうものでは彼女は動きはしないでしょうね。あのひとは結構強情ですから。確かに父上や弟君のことを思いはできましょうが、それ以前にもう宮仕えはうんざり、と言ってましたから」
「すると?」
「紙ですわ」
梛はずばり答えた。
「彼女をどうしても身近に置かれたいと中宮さまがおっしゃるのでしたら、紙と筆と墨。それを好きなだけ用意する、美しい文字で書かれた写本を揃いで作る、と約束することです」
「そんなことでいいのですか?」
「行成どの、能書家のあなたの言葉とは思えませんわ」
ああ、と彼は納得した様な顔でうなづく。
「……困っているのですね、彼女は。思う存分に文字を書き散らすことができなくて」
「とても」
梛は短く答えると、ちらと自分の文箱の方を見やった。彼女の文机の周囲は普段は一体どういうことになっているのだろう。
以前箱から溢れる程であった彼女からの文は全て束ねて返してしまっている。
自分が昔書いた文を読み返すというのはひどく恥ずかしい。香が果たしてそう考えるかどうかは判らないが、少なくとも梛はそうだった。
それすらも「次に書くものの為に」反古として引き取らざるを得ない。どういう気分なのだろう。
「ではその方向で左大臣どのに進言致しましょう。それと姉君」
「まだ何かあるのですか?」
梛は笑った。
「いえ、これはとある女房から個人的に頼まれたことです」
そう言って行成は一つの草子を取り出した。
「……と申しましても、先程話題に出たひとなのですがね」
「赤染衛門の君ですか?」
梛は驚いてその草子を受け取った。きっちりと製本されたその中には真っ白な紙と美しい文字が綴られていた。
「物語ですか?」
数丁めくり、文字を目で追うが、物語とも散文とも言い難い。
行成はおもむろに言った。
「日記です」
「日記?」
「ええ。とある女性の」
更に梛は読み進めてみる。歌が多い。そしてこの詠みぶりには覚えがある……
「行成どの、もしかしてこれは」
「女」と「宮」との恋愛。
「ええ、和泉式部の君の日記です」
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