23.痴話げんかの手紙
「あら、お知り合いではなかったの?」
「いえ……」
梛は首を弱々しく振る。
「まあ少納言さんの場合、あなたが知らなくても相手は知っているってことがたくさんあるからね。結構大国の守を勤めてる方よ。本当に心配そうな顔してらしたわ」
「……何だか、面白がっていません?」
「そんなことないわよ。ただね」
同僚はふっと目を細めた。
「何か最近少納言さん、元気が無いから」
「……そう…… ですか?」
「でもきっと、疲れているのね。皆もそうだけど、何となく今のここの空気は重くて」
そうかもしれない。
中宮を中心とする梛達は、どうしてもその進退によって気分も変わってくる。
現在は少し前よりは悪くない。だけどそれがいつまで続くかも判らない。安心できるものは何もない。
それは少しづつ、少しづつ、梛達の身体に疲れとして食い込んで来るのかもしれない。
「まあそういう時は、宿下がりして、美味しいもの食べて、いい人と過ごすのが一番だけど」
今はちょっとね、と彼女は苦笑した。
*
翌日、藤原棟世からは見舞いの文が届いた。唐菓子に付けられた。
「花ではないのね」
同僚はその唐菓子を一つつまむと「美味しい」とつぶやいた。
ぽり、と噛むとそれは普段食べるものより少し甘めだった。
彼からは、それからしばしば文とお菓子が届けられる様になった。
*
「それにしても梛さま聞いて下さいな。あのひとときたら、私の書きかけの物語を持ち出しては、他の方に見せているというのですよ!」
香からの文に対しては、このところ梛は以前より距離を置いて読む様にしていた。
それまでの距離は彼女に対する「大人の目」のつもりだった。だが今の梛がそれに付け足すのは「嫉妬の目」だった。
飽きずに書いてくる彼女の文には、現在の幸せが、様々な形で描かれている。
これもその一つだ。
「それで言いました。今まで私が出した文を全部返してくれないと、もうあなたとは縁切りですよ、と」
……痴話喧嘩だ。
「そうしたらあの人、本当にしばらくやって来ないのです。私は困りました。すごく困りました。どうしていいのか、本当に困りました。そしてそう思う私自身が嫌でした」
結局は彼女が微妙に折れる形となったらしい。そして夫にはなかなか理解してもらいにくい、と彼女が思いこんでいることをこうして愚痴として梛に吐き出してくるのだ。
「別に物語だって、ちゃんとできてからならいいんです。今書いているのは、あの光君の話です。
梛さまや、素晴らしい方がたからの感想を元にして、光君がどういう人なのか、肉付けしつつあります。
そのために幾つか小さな話を考えてみたのです。話のもとは、具平親王さまにお仕えしていた頃に聞いたものが幾つか蓄えてあります。それを使いたいと思います。
例えば、出先で物の怪にとり殺されてしまったらしい美しい召人の話なんて、素敵じゃないですか?
そう言えば梛さま、物の怪の絵を夫と見ていたことがあるんですけど、私達、それについては考え方がぴったりと合ったんです。物の怪というのは、本当にあるものじゃあないって。
今までそう言うと、大概の人は『そんなことはない、何を言ってるんだ』と嫌そうな目で私を見たものですが、夫は違います。
地獄絵図を見てもそうなのです。地獄は人の考えたものでしかない、と夫は言うのです。後世のために見た方がいい、と言われていますが、後世すらも彼は半ば信じていない様です。
物の怪についても似た様なものではないかと思っています。私も思います。あれは人の心が勝手に作り出すものではないでしょうか。やましい気持ちがある時には、暗闇にふと見える、風に揺れる衣が誰かの生き魂の様に感じられることがあるのではないでしょうか。物の怪が何かを言った様に聞こえたとしたなら、それは空耳ではないでしょうか。やましいことをしているという気持ちが、自分自身の耳に吹き込む何かなのではないでしょうか。
そう言ったら夫は『面白い考えだね』と言ってくれました。『私はそこまで割り切れはしないが、物詣は自分自身を安心させるためにある様な気がしている』と」
そしてやがて、愚痴のはずが惚気に変わる。
構わない。別に構わないのだ。香が幸せならば、周囲も下手に振り回されることもなく、平和だろう。おそらく。
香は物語そのものについても、繰り返した。
「でも梛さま、物の怪の話だけじゃあないのですよ。
光君が従姉の姫に文を送るのですが、それが朝顔の花につけられていた話とか、五節の舞姫が遠い筑紫の国に行ってしまうからと急いで思いを告げる話とか。考えてはいるのです。軽く書いてもみたのです。
だけどその軽く書いたものを持ち出されるのは凄く嫌なんです。……しかもそれを、他の女に見せるなんて!」
はて。そういうことをする様な男には見えなかったが。
「女に決まってます!」
なるほどそういうことか。……いや、微妙に……
「きちんとできた話ならいいんです。女だろうが誰だろうが! でもあれはまだ書きかけです。そのまま長く続けるかどうかも判らないものです。反古にするかもしれません。
そういうものを持ち出されるのは、私は凄く嫌なのです」
ああそうですか、と今の梛は思うことしかできない。
ちなみに香はこう締めくくっていた。
「光君のご両親のお話はだんだん書き始めています。
題名はもう決めてあります。身分が少しだけ低い、光君の母君の御局の名前。
『桐壺』とつけようと思います」
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