9.香の「うつほ」感想
「『うつほ』についての梛さまの感想、楽しく拝見いたしました。
確かに私もそう思うことしきりです。
俊陰の話は外つ国の不思議なこととして夢のように面白いのに、主人公である仲忠の話はずいぶんと生々しいと思うのです」
宮中に梛が出仕する様になってからも、香からの文は途絶えなかった。
彼女は相変わらず、本当か嘘か判らない自分の周囲のことを書き記す。時には書物の感想も。
梛自身が「うつほ」について思ったことや、当時女房達の間で盛んだった「仲忠と涼、どっちが好き?」という内容を書き送れば、香は香で思うことをぎっしりと書き送ってきた。
「私は『俊陰』の巻だけは別と考えてます。もしかしたら、あれをもとにして、仲忠を主人公にした話を別のひとが書いたのかもしれません。
だってそうでしょう。雰囲気があまりに違ううえ、一つの話の中で出てくる人の数とか、あまりにも考えていない様な気がします。
『藤原の君』の話、覚えてらっしゃいますか、あの一家の人数。
藤原の君、正頼は大宮と大殿の上という二人の奥方を持ったのでしたよね。その大宮には男八人女九人、大殿の上には男四人女五人が生まれたと。全部で二十六人ですよ。とてもとても、そんなたくさんの子供を持つなんて信じられません。
しかもその息子達の名前ときたら、忠澄、師澄、澄澄澄…… 皆、澄を付けた名前なので、読んでいて誰が誰だか判らなくなることしきりです。
姫達にしても誰が誰だか。私だったら、もっと女君達の人柄が判るような呼び名をつけたいものです。世間ではこう呼ばれている、というだけでよいのではないかと思うのです」
なるほど、と梛は思った。
「それに名前もですが、性格がどうにも際だってこなくて。
仲忠がいい人だというのは判るのです。本当に自分の子を可愛がっているし、母君への孝行も素晴らしい。それもよく判るのです。でも、できすぎです。
北の方と子供を何年も放っておいて、恋の病にふらふらになっている実忠、焦がれ死んでしまった仲澄は『馬鹿みたい』と思いつつも、やはり悲しく愛おしく感じます。女二の宮を無鉄砲に手に入れようとする近澄や、五の宮も可愛いです。結局彼の手には入りませんし。
ちなみにあの三奇人は私は嫌いです。何か凄く厭らしい感じがします。梛さまは面白かったとおっしゃいましたが、私はあんな人達が居るところには近寄りたくもないです。
それでもまだ、男性の描き方はいいのです。色んな人がいるのね、と私は感心しました。問題は、女性のほうなのです。
梛さまは、大宮と大殿の上は嫉妬するどころか、同じ御殿の中、仲むつまじくいらしたというのを、どう思われましたか?
大宮と大殿の上は二人して仲良くやっていたとあります。どうしても私にはそれが信じがたいのです。
私はこの方々がこれだけ多くの子供を生んだのは、お互いが内心競っていたのではないか、と想像してしまいました。
おつとめしていた宮の北の方に読んで差し上げた時にはこう言われました。作り話ではあろうけど、それはあまりにも無理でしょう、と。
……少し話はずれますが、私はどうしてもこのあたりの話が好きにはなれません」
おや、と梛は思った。
長徳二年。
この時期の現実の中宮や中関白家の事情を横に置いて、ただの物語として読むならば、梛はあて宮が入内した後の話は好きなのだ。人々の行動が生き生きと描かれていて楽しい。
たとえば、「蔵開き」では女一宮が仲忠の娘を出産する場面がある。その時の仲忠の行動が面白い。彼は祖父譲りの書物をもとに、それこそ食事の内容に至るまで妊婦である妻の世話を甲斐甲斐しくする。
そして無事美しい姫が生まれたと知った時の彼の喜びようときたら。普段は帝に命じられても滅多に弾かない琴をこれでもかとばかりに鳴らし。その音に、同じ屋根の下に住む公達が様々に慌てて飛び出して来る。好敵手である涼も、実にあられもない格好で琴を聞くべく飛び出してくるのだ。
梛はさすがにその辺りを読んだ時、唖然とした。そんなことがあっていいのか、と思った。だがあて宮求婚話の時に、思いこみが激しいあの三人の老求婚者を実に楽しそうに描写した作者である。きっと「あり」なのだろう、と思い返した。
その後で、「国譲り」では藤氏出身の后の宮が源氏のあて宮や、その姉女御に関して、罵声を飛ばす。
「どんな秘所がついているのかしらね。そこに少しでもくっついた男を、みな吸い寄せて、大事をなす妨げようとするのだから」
そして一族である梨壺の皇子に消極的である男達については。
「まあ何と不甲斐ない。男の証であるものがちゃんとあって、仮にも男の端くれに生まれてきていながら、その言い様とは」
そんなことがあっさり書けてしまう作者である。仲忠同様、何でもできる貴公子然とした涼が羽目を外す機会を狙っていたのかもしれない。
そしてまた、二人目の子供の時の仲忠の狼狽ぶり。梛は彼等がいきなり身近な人になった様な気がしたものだ。
だが香にはそうではなかった様だ。
「私が好きなのは、『俊陰』と最後の『楼の上』です。
正直、その間のことを全て飛ばしてしまってもいいのではないか、と思います。そうでないと、雰囲気があまりにも違って、気持ち悪いのです。
『俊陰』に出てくる人々は、実に美しいです。どんな場所であれ、琴一筋に心は気高く、それ故に様々な不思議も起こる……そんな美しい世界です。あの巻を初めて読んだ時、しばらくその世界から戻って来られませんでした。
だからその後手に入れた、『藤原の君』や『忠こそ』を読んだ時、本当に同じ作者なのかしら、と思いました。突然世界が生臭くなった様な気がしたのです。
また何を別の話を、と当初は思ったのですが、よくよく読み返すと、忠こそは新しい方の『俊陰』にちらっと名前が出てきた人ではないですか。しかも仏に仕える身になっていながら、あて宮に思いを寄せるなんて…… 嫌だ嫌だ。
仲忠も。あの母を思う清らかな少年が、いきなり『評判の姫に片思い』ですか。しかもあんなとんでもない方々と並んで。
私は実に嫌な気分になったものです。
そしてその後、どうなるものかと、期待半分、怖れ半分で、飛び飛びに巻を手に入れて読んできました。
するとどうでしょう。あの美しい世界がどんどん汚れていくではないですか。確かに相変わらず琴は何よりも大切な様ですが……
ああ、その中でも、貧しい学生の藤英の話や、『初秋』はその中では梛も許せるのです。特に藤英には、少しばかり、お父様を重ね合わせてしまいました。
そこで話は戻る訳ですが、女性をもっと、生き生きと描いて欲しいと思います。女一宮や后の宮がぐっと引き立って見えますが、判らないひとが多すぎます。
そういえば私は、兼雅が嫌いです」
はて、と梛は突然出てきた名前に首を傾げた。
「確かにずっと消息が判らなかった相手と巡り会い、それからずっと心を一人に捧げてきたというのはとてもいいことです。
が。それからというもの、それまでの人を全く省みない、いえ、全く忘れてしまっているのはどうでしょう。
でもきっと、彼は、世間の人からはせいぜい『色好み』と言われるくらいなんでしょうね。きっと。
そして放っておかれた彼女達の様子ときたら!
私はこの男は本当に、だいっきらいです」
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