5.弟君の訪問

 そんなある日、訪問者があった。


「藤原…… 惟規のぶのりどの?」

「お若い方です。梛さまが出仕してしまうと、なかなかご挨拶に向かう機会も少なくなってしまうと思われて、とのことで。ご存じではございませんの?」

「うーん」 


 梛は首を捻る。その名は初耳だった。

 とりあえず通し、松野を通して受け答えをさせる。その間、梛は物越しに青年の様子をうかがった。

 歳の頃は二十歳かそこら。穏やかな色合いの直衣を纏った、線の細い優しげな青年だった。


「実は、以前そちらのお父上に、歌の代作をお願い致しましたことが」

「……ああ!」


 そういうこともあるだろう、と梛は思った。


「前々から、女性に対しても不甲斐ない私のために父が歌人として名高い肥後守どのにお願いしていた様なのです」

「それで歌の方は」

「はい、任地から、文にていただきました。それからすぐです。元輔もとすけどのがお亡くなりになったのは……」


 そう言うと青年は袖で目頭を押さえ、しばしの間、じっとしていた。ややもどかしさは感じつつも、梛は誠実そうな青年の姿にあえて次の言葉を待った。


「……失礼致しました」

「いえいえ」

「私はどうにも要領の悪い男で、元服してからこのかた、思いが報われたことが殆どございません。ようやく一人のひとに通じたと思ったら、心変わりをされて」


 そしてまた、よよと涙をこらえる。


「父が見かねて、以前より交友のあった元輔どのに、そのひとへの歌をお願いしたのです。有名な『梨壺の五人』のお一人の歌なら、と思った様ですが…… もっとも、届いた頃には、我々の仲は完全に終わってしまっていたのですが」


 彼はそう言うと、袖を外して苦笑した。


「父が作ったというのは、どういった歌ですか」


 梛は直接問い掛けた。彼は目を伏せて、ゆっくりと口にする。


「『互いに袖の涙を絞りながら約束しましたね、末の松山に波を越させまい、決して心変わりはするまいと』」


 ああ、と思わず梛は大きくうなづいた。父が詠みそうな歌だ。


「正直、送らなくて良かったと思いました。私の歌ではないと、すぐに判ってしまいます」

「代作はよくあることでしょう。男女の仲、ここ一番という時には特に」


 そう。それ程に歌は恋において大切なものなのである。なのに梛の元夫などはそれすらも厭ったのだから、本当に変わり者だったと言えよう。


「かもしれません」


 彼はまた少し微笑った。

「けど代作の歌で相手との仲が持ち直したとしても、何となりましょう。その様に誰かの手を借りないとそのひとと続かないというなら、きっとそのひとと私は縁が無かったのです」

「失礼ですが、惟規どの、貴方は歌のほうは……? あまりお好きではない?」

「好きです。上手い下手を抜きにすれば、ですが」


 不躾な質問に対し、彼はあっさりと答えた。


「誰かと比べると言っても、父は歌よりは詩のほうですし、姉は―――」


 そう言いかけて、彼は不意にうつむきがちだった顔を上げ、口調を変えた。


「そう、あなたには姉がいつもお世話になっております」

「姉?」


 思わず梛はそう問い返していた。青年はふんわりと笑った。


「はい。いつもいつも楽しそうに文をしたためているので……」

「文」

「姉のあのとてつもなく長い長い文に、呆れ返ることもせず、お返しを下さるのはあなたくらいだと、父も乳母子もいつも感謝しております」


 はたと梛は気付いた。


「それじゃあなた、香さんの」

「はい」


 ぱっと梨の花がほころぶような笑みがそこにはあった。またおっとりと首を傾げる様は、香の持つあのせかせかとした調子とは似てもつかない。


「惟規さま。本当に失礼だとは思うのですが、香さんと本当にごきょうだいなのですか?」

「梛さま!」


 松野が鋭い声を飛ばした。構わず梛は几帳をずらし、惟規と顔を合わせた。もっとよくこの青年を見てみたかったのだ。

 目を凝らす。似ていない。全然似ていなかった。

 青年は梛の行動に格別驚いた様子も見せなかった。ただ柔らかな笑みを梛に向けるだけだった。


「本当に弟です。同じ父というだけではなく、同じ母から生まれました」


 でも、と彼は寂しげに目を伏せた。


「いつも言われます。本当に同じ母から生まれたのか、と。そしてこうも言われます。どうして姉が男でなく、お前が男であったのか、と。私もそう思います」


 ああ、と梛は納得した。

 思い出した。香はこの青年と子供の頃から比べられていたのだ。


「私が父に『史記』を教わる傍らで、姉も聞いていました。私が前日教わったところを、本を手に声に出して読みます。ですが出来の良くない私はつっかえます。すると姉はその側ですらすらとそらで唱えるのです」


 いい性格だ、と梛は内心思った。実に彼女らしい、と。


「姉は怖ろしい程、憶えが良いのです。小さな頃からそうでした。乳母が言うには、一度読み聞かせただけで完全に暗唱したそうです。それも、ほんの五つか六つの頃だと聞きます」


 ため息をつく。


「漢文に関しては、父の言ったことを一つたりとも聞き逃すまい、という気迫で立ち向かってきました」

「……前式部丞さきのしきぶのじょう―― 為時ためときどのは、香さんには直接教えたことが?」

「いいえ」


 彼は首を横に振った。


「人目があるから、それはできないとのことです」

「ひとめ」

「乳母にしても、女が漢学などすると婿君が来ないなどと普段よりぶつぶつ言っておりますから」


 側で聞いていた松野は成る程、という顔で聞いている。


「父はそういう周囲の声を聞くのが嫌なのです。だけど姉には教えたい。そこで、私に教えるのを横で聞いている、という形を取らせたのです。もっとも、皆、父の気持ちは判っているのですがね」

「……残酷ですわね」


 梛は顔をしかめる。


「どうでしょう」


 彼はまた、苦笑した。


「残酷だと言えば、私達の性別をこの様に振り分けた天のほうだと思いますよ」


 嗚呼、と梛は内心嘆息した。その思いだけは、きょうだい二人とも同じか、と。青年に暗い表情をもたらしてしまったか、と。


「あ…… ところで」


 梛は話題を変えようと思った。


「一つ気になっていたことがあるのですが」


 はい、と彼は笑う。


「私に答えられることなら何なりと」

「……香さんと―― 惟規どの、あなた方には同腹のお姉様がいらっしゃいますか?」

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