2.二人の最初の対面
「私は
几帳を取り払った相手は向き直ってそう名乗った。小柄な身体は、十代半ばくらいに見える。
「父は前式部大丞でした
「ああ」
藤原為時と言えば、都でもそれなりに名の知れた学者だ。春頃には中務宮である
「私の乳母…… この野依の母なのですが、それが病気で下がっているのを見舞った帰りに、方塞がりに気付きまして」
「ああなるほど。まあこっちもそんなものよね」
相手の露骨過ぎる物言いにやや面くらいながら、松野ははあ、と曖昧に答える。
「その、先程は失礼致しました」
香は頭を下げる。
「けど、どうしても、その……」
ぱっ、と顔が上がった顔は赤かった。
「『光君』につながる方かと思ったら、たまらなくなって」
梛は松野と顔を見合わせた。
「いえ、どんな方かも知らないで、突然こんなことするなんて、とても不作法ですし、分かってはいるんですけど、でもどうしても。いえ、危険かもと考えなかった訳じゃあないのです。でも、物語の名前もつらつらと聞こえてきたから、流れからしたら間違いないな、と」
「姫さまお願いですから、もう少し、ゆっくりお話し下さい……」
「姫君というものはそんな早口でまくし立てるようなことはなさらないと、私は常々申し上げておりますのに……」
「お前は乳母そっくりだわ」
「だって言いたくもなるじゃあないですか。ただでさえ、私どもにはまるで分からない漢籍を殿から勝手にお借りになっては……」
「お父様はご存じよ。それで何も言わないもの。だからいいの」
「姫さま……」
またもやため息。と。梛はつ、と手を挙げた。
「ちょっと待って、あなた漢籍が読めるの?」
「読めるという程ではないですが」
「いいえいいえ」
今度は野依の方が大きく手を振って否定する。
「姫さまはお読みにになるなんてものじゃあございません。お父君がいつも、弟君とお比べになって、『この姫が男であったらさぞ』と嘆かれる程ですの…… む」
香は黙って後ろに回り、野依の口を両手で塞ぐ。その眉間には深く皺が刻まれている。
「お見苦しいところをお見せ致しました」
「いえいえ。……それよりまだ私ども、そちらに名乗ってませんでしたね。私は梛と呼ばれております。肥後守の末娘です」
香の表情は瞬く間に輝いた。
「今の肥後守どのの末姫とおっしゃると、確かこの夏、法華八講の時に、権中納言殿に見事な切り返しをなさったという……」
梛は苦笑した。一体噂というのは何処から流れているものだろう。この乳母子をはじめ、大概の女には眉をひそめられる出来事だが、彼女にとっては充分に武勇伝であったらしい。
「凄いなあ、っていつも思っていたんです。私には絶対できないって」
上気させた顔で、香は両手を顔の前で合わせる。
「しない方がいいですわよ」
松野はそう言うと、乳母子らしい野依に向かって「そうでしょう?」とでも言いたげに首を傾げた。言われた側も全くだ、とばかりに大きく何度かうなづいた。
「たまたま場所と暑さがいけなかったのよ」
「ああ、その方にお目にかかれるなんて! しかも『光君』のことをご存じなんて!」
まるで梛の言葉など聞いていない。しかも「光君」のことを知っている。
「光君」。それはこの頃、物語好きの受領の娘達が結託して作っている架空の「理想の男君」のことだった。
世に物語はいろいろある。古くは「竹取」から始まり、長きは「住吉」「落窪」があまりにも有名。短きはもう様々に。
最近ならば「
そんな物語の全てを読んでみたい。都には、そう思う女達が居る。だが思ったところで、それがすぐに手に入るとは限らない。
そこで女房達から噂を聞く。誰それがその本を持っていると聞く。そこに渡りをつける。それからようやく貸し借りの交渉に入る。
そんな面倒な手続きを踏んで手に入れた物語が大したことなかった時の悔しさときたら!
そう思う女達が自然、一つの集まりを作る様になった。
仲間に加わっているのは、受領階級の娘が大半だ。実際には彼女達の仕える姫君達もその中に加わっているかもしれない。
未婚既婚を問わず。ちなみに梛は一応既婚の部類に入る。子供も一人居る。
歳の頃は下は十七、八から上は三十を少し越すまで。
活動の中心は草子の貸し借り、感想の文の回覧。時には実際にその仲間達で集まって、話をこうでもないああでもないと話し合うこともある。いつまでもこんな風に、楽しいことを話し合ってばかりいられたら! いつも時間が過ぎるのが惜しい。
主活動たる文の方はと言えば。例えば「落窪」を誰かから借りたとする。すると返す時に草子につけて、感想が一つまず現れる。
―――この姫君はあまりにも動かなさすぎる、流されている。
すると相手だけでなく、その話を聞いたそこかしこから様々な意見が書き加えられる。
――仕方ないでしょう。
――あこぎが居るから大丈夫。
――そもそも、そういう大人しやかな女君だからこそ少将は好きになったんだ。
等々。
時には「こんな物語があったらいいね」ということも書き合う。
――舞台を宮中にして……
――唐天竺まで行くのは……
――月の都はどんなものかしら……
想像するのは楽しいものだ。
その中で誰ともなく言い出したのが「理想の男君」だった。
素晴らしい男君。都の女君全ての憧れの的。けどそれだけじゃあ面白くはない。何処かに影があって…… 容姿は? 身分は?
そんなことを皆で話し合い、送り合い、作り上げていく「理想の男君」――光かがやく―― それが「光君」だった。
中にはその「光君」が何処かの姫に向けて詠む歌を想像して作る者も居る。 歌を詠む場面を想像しあったりもする。花の頃、月の夜、雪の朝…… 小さな物語を実際に作ってしまう者も居る。
「梛さまは、物語をお書きになったことはありますか?」
香はある程度活動内容を知っていた様だった。目をきらきらさせて梛にそう問いかけてきた。
「いいえ。私は物語は書きません」
「何故ですの?」
香は首を傾げて問い返してくる。無邪気なのか、それとも梛の反応を見ているのか。隠すことでもないので、正直に答える。
「書こうと思ったことはあるのよ。でも書こうと思って書けるというものでもないでしょう」
そしてもののついでに、とその時持ち合わせていた反古を彼女に見せた。手に取った香は口に出して読み始める。
「牛車が道を通る時の……」
少しばかり梛は気恥ずかしさを感じる。松野以外の者に声に出して読まれることは滅多にない。
「そう、その時の露がきらきらして綺麗。そういうことは書けるんだけど」
「どうしてですか? 物語とは、そういう場面の積み重ねでしょう?」
率直な問いかけに、梛は苦笑した。
「小さな情景を、書くのは好きよ。すごく。歌より大好き。だけど、それだけなの。そう例えば、私が書くと、『光君が何処そこへ行きました』。――それで終わり」
「それではいけないのですか?」
香は首を傾げる。
「いけないというのではないのかもしれないけど」
梛は少し考えた。
「それじゃ『光君』の話としては面白くない気がするのよね。私は物語だったら面白いほうがいいもの。もっと光君にには動いて欲しいわ。ただ何処かへ行って女君と逢いました、だけじゃなくて」
「でもそういう物語も多いではないですか」
幾度か首を傾げながら、香は問い返す。
「そうね。そうかもしれない。だけど私は嫌なのよ。私が書くものだったら」
「だったらそういうものを梛さま、お書きになればいいのに」
少女はむきになって返してくる。先程三つ下と聞いた。嘘だと梛は思った。結婚して子供の一人も居ておかしくない年である。
「それが浮かばないから困るのよ」
梛は苦笑しつつ答えた。
そう。彼女にはそれができない。
外へ出た。美しい情景を見た。面白いことがあった。何が綺麗だ何が可笑しい、何がどんな風に素敵だ―― それを言葉を尽くして書くことは好きだ。大好きだ。
だがそれだけでしかない。次につながらないのだ。
「そういうものですか?」
「そういうものなの」
香はいささか釈然としない顔だった。
*
その日は夜通し物語談義が続いた。その密度は今までに出会った誰よりも高かった。
翌日の訪問を梛が眠気によって中止しなくてはならない程に。
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