三十五 蟹女

 わたしの正体に気づいたらしい、そのお婆さんは、

「あんたになら、話してもいいかもしれない……」

 そう言ってわたしの顔を見ました。

 わたしが見返すと、

「雪女みたいな話だけど、嘘じゃないよ」

 と前置きをして、こんな話をしてくれました。

「あたしが若いころ、もう五十年は昔の話だけどね。あたしは、小さいながら船を一艘持っていた猟師の家に嫁いで、まあ、不足のない毎日を送っていたと思ってくださいよ」

 そう言ってから、言葉を探したのか、それともやはり躊躇したのか、お婆さんはしばらく口をつぐみました。そのお婆さんの顔を見ながらわたしが次の言葉を待っておりましたら、お婆さんは深く息を吸って、

「子供ができて、しばらくは大漁続きでよかったんだ。そのうち亭主が博打にはまってね。それでも最初のうちは漁にも出ていたんだけれど、不漁続きで腐っていると運も悪くなるんだろうね。そんなときは博打の目も出ない。分相応にやってくれてりゃ、やりくりもできるんだけど、そんなわけにもいかなくなって、網元に頼んで算段してもらったのは、まだよかったんだよ。返す金がないから待ってくれって言ったら、じゃあ、その代わり、うちの仕事を手伝ってくれと言われて、子供も連れていくと、網元のおかみさんもよくしてくれてね……」

 言うと、お婆さんは何かに気づいたような表情を見せて、

「もしかしたら、あんたに累が及ぶかもしれないけれど、いいかい?」

 と念を押しました。

 わたしは微笑んで先を促しました。

 すると、お婆さんは、他に聞く者もいないのに声を落として、

「そのおかみさん、実は蟹の化け物でね」

 と言いましたけれど、わたしが驚きもせずにいましたら、少し拍子抜けした顔を見せました。

 それでも、

「どうして網元のおかみさんが蟹の化け物になったのかは知らないよ。けれども、女癖の悪い網元が引っ張り込んで寝ている女の口の中に、おかみさんの着物をまとった大きな蟹が泡を吹き込んでいるところを見てしまったんだよ」

 お婆さんはそこで言葉を止めて、わたしの様子を窺いました。でも、わたしの動じない様子を確かめると、

「あたしに気づいたおかみさんに、いえ、おかみさんの着物を着た蟹に、しゅるしゅると泡を吹きかけられて、あたしは身動きできなくなった。そうしておかみさんは、このことは誰にも言うな、誰かに話したら、お前も、子供も、命はないものと思え、と脅した。そのときは身も心も縮み上がったけれど、誰にも漏らさないでいたら、おかみさんはずっと優しくしてくれた」

 ここまで言って、お婆さんは長い息を吐いて笑いました。

「ただね、そんなことでも誰にも話さないままじゃ、人は死ねないのかもしれない」

 一つ小石を置くように言って、

「子供も先に海で死んでしまったし、ここであたしが誰かに話して命を奪われても、もう惜しいとも思わ……」

 言い終わらぬうちに、お婆さんの身体は泡になってしましました。

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