三十一 怪屋敷

 わたくしが奉公しておりました方が屋敷替えで新たに移りましたお屋敷の、まだ、転居のお荷物が片付かない春の日でございました。

 深更に及びまして、どこからか、何人もの女のすすり泣く声が聞こえますのに気がつきましたわたくしが、廊下を伝って中庭の前にまいりましたら、その声は聞こえなくなりました。

 春雨に濡れる闇夜。

 わたくしはしばらくそこに立っておりましたけれど、雨音の他には何も聞こえませんせした。

 翌日、昼の間にその辺りを歩いてみましても、変わったところはありません。

 その夜、やはり女のすすき泣く声が聞こえましたから、またそれを頼りに廊下を伝ってまいりましたら、今夜は月の光に浮かんで中庭一面、櫻の花びらがきれいに散り敷いておりました。よく見ますと、一枚一枚、誰かがそこに丁寧に並べたような模様を態しております。けれども、近くに櫻の木などはありません。

 中庭に降りてしゃがんで月明かりに映える櫻の花びらにわたくしが右手を差し伸ばしましたら、突然、土の中から出てまいりました手がわたくしの手を掴みます。とっさにその手を振りほどこうといたしましたが、白く細い、華奢に見えるその手は案外強く、わたくしの手を捕まえて放しません。わたくしが左手で白い手を取り除こうといたしましたら、別の白い手が新たに突き出てわたくしの左手を掴みます。それを契機としたように、散り敷いた櫻の花びらの下から次々と白い手が、それも右の手ばかりが突き出てまいりました。

 わたくしは立ち上がって、掴まれた両手を強く引き上げようといたしました。白い手は、わたくしの両の手を掴んで土の中に引き入れようといたします。それでむざむざ引き込まれるものではありませんが、まとわりつく手をまとめて握り直してわたくしが、本気で引き抜きにかかりましたら、強い風に吹かた大木の枝葉が大きく揺れるような音が聞こえます。辺りを見回しましたが、やはりそれらしい木々はありません。

 そこで今度は掴んだ白い手の何本かをわたくしが捻り上げてみましたら、生木が裂けるような音が響いてそれらから力が抜けたかと思うたとたんに、すべて朧に消えてなくなりました。

 以後、怪しいことは起こりませんでした。

 中庭を掘れば、何か出てきたかもしれません。

 それとなく伺ってみましたけれど、そのお屋敷に代々櫻の木はなく、怪異の話などまったく伝わっていませんでした。

 そこに住まう人々が気づかぬだけで、ほんとうは何かを秘めている屋敷が、世の中にはたくさんあるのではないかと思ったことを、今宵、こちらの敷居を越えますときに、ふと思い出した次第にございます。

 

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