第90話 リセット ACT1
その日、私はバイトを休んだ。
もうじき夏休みも終わる。長いようで、あっという間に過ぎ去った時間。
この時間を私は宝物のにしたいくらい幸せだった。
この心に沁み込んだ沢山の人の愛と繋がりを、私は失ってはいけない。と、思う。
この数日前から、友香さんの容態は良くない。
もうベッドから起き上がることも出来なくなっていた。
浩太さんは仕事を昼で切り上げ、毎日の様に友香さんの所に行っている。
日に日にその様子は変わってくる。
その日、浩太さんは朝私に
「なぁ繭今日は一緒に友香の所に行かないか」
その言葉を聞いた時、私の脳裏には「……もう」と言う言葉が浮かんできた。
多分、意識のまだあるうちに最後のお別れをさせたい。浩太さんの想いなんだろう。
「うん、杜木村さんに連絡しておく」
「ああ、昨日杜木村さんも来てくれていたから、分かってくれると思う」
「……うん」
杜木村さんに連絡を入れたら「うん、分かった」とだけ返してきた。彼女も親友が迎えるその先に、もう気持ちを向けなければという事を悟っている。
「俺、昼すぎには向かうから、繭は先に行っていてくれ」
「うん、分かった」
「うん、それじゃ行ってくる」三和土で浩太さんは笑顔で私にそう言った。
その笑顔は今にでも泣き顔に変わりそうな笑顔に見えた。
病院に着くと、真っすぐに先生の病室へと向かう。
歩く足が物すごく重い。一歩踏みだすごとに、体中に力が入る。
病室の扉は閉まっていた。
そのスライドドアを開けると、ゆっくりとこちらを見つめる友香先生の目と私の目が合う。
にっこりとほほ笑んで、私を迎い入れる友香先生のその姿はすでにもう、この世から旅立つ支度が整っていいるかの様に見えた。
「繭ちゃん来てくれたんだ」
「うん。おはようございます、先生」
「うん、おはよう」そう言って視線を天井へと向けた。
「繭ちゃん、その服とても可愛いよ」
白い天井を見つめながら、先生は言った。
「あ、ありがとうございます」
「浩太は?」
「昼過ぎからくるそうです」
「そうかぁ、そんなに無理しなくてもいいのにねぇ。もう十分よ」
私はキュッと口をつぐんだ。
「ねぇ、繭ちゃん」
「なんですか先生」
「うふふ、もう私あなたの先生じゃないのに、まだ先生って呼んでくれるんだ」
「でも、私にとって先生は先生なんですもの」
「そっかぁ」
「そうですよ」にっこりとほほ笑んで返した。
そんな私を見つめながら先生はその口を開いた。
「繭ちゃん、私あなたと初めて出会った時、とてもいい子なんだぁって思った。あなたの第一印象って物凄く未来に満ちていて、どんなに苦しくたって、どんなに悲しいことがあっても乗り越えられる強い子なんだと思ったの」
「なんですか先生、昔話みたいじゃないですか」
「昔話かぁ……そうかもね。でもねそんなあなたがあんなめにあうとは思ってもみなかった。正直なところ、私には荷が重い、こんな体だし、あれだけの心の傷を背負い、人格まで変わってしまったあなたを、またもとの世界に引き戻すことは私には出来ないと思った。出来れば始めはあなたとはもう関わることを止めたいと思っていたの」
「そうなんですか……そうですよね。普通はそうなんじゃないんですか」
「うん、逃げたかった。担任でも、そんなこと関係ない位怖くて逃げたかった」
「それなのにどうして先生は私に、あんなにも関わったんですか?」
先生はまた私の顔を見つめ
「あの時、あなたが施設に保護された時に、あなたは私の姿を見て涙一つ流さなかった。俯いて言葉をかけても何も返してくれなかった。その時私はもう無理だよって思ったんだぁ。だから、それからしばらくあなたの所に行くのに勇気が出なかった。体が拒否していた。だから行かなかった」
『私はまた逃げたんだよ……。浩太から逃げた様に、繭ちゃん。あなたからも逃げたんだよ』
浩太さんから逃げた……。
「先生はどうして浩太さんから逃げたんですか?」
「……そうねぇ、怖かったからかしら。私の病気が分かって、この先、浩太に大きな負担を貸せてしまうのが怖かった。あの時すぐに病状が悪化することはないことは分かっていた。でもね、時間が経てば確実に私の体が蝕まれて行く。その姿を浩太に見せるのが怖かった」
「そっかぁ、だから、先生は浩太さんと別れたんだ」
「ううん、別れたんじゃない。私は浩太と出会ったこと自体をリセットしようとしたの」
「リセット?」
「うん、こんな私と出会わなければよかったと思えるように、そして、出会わなかったことにしたかった。私の勝手な我儘なんだけどね」
「そんなことできると思ってたんですか? 出会った事実は変えられない事なんじゃないんですか」
「そうだったよ……。苦しかった。浩太と一緒にいられない自分がそうさせた自分を恨んだなぁ。本当は私を支えてほしかった。ただそばにいてくれるだけで良かったんだよ。それだけで私はどれだけ救われていたか分からない。でもそれももう出来ないことに気が付いた時、あなたのことが頭から離れなかった。もし、浩太が私の傍にいてくれたら、浩太は、何も言わず、私を黙って支えてくれたんだと思う。その支えが必要なときにいないという事が、一番そしてどんなにつらいことなのかという事に気づかされた。あの時あなたがそうであったように」
「だから先生は私の支えになろうとしたんですか」
「あなたの支えになろうなんて奥がましいことなんだけど、でも、私に出来ることはあると思った。こんな体でも、私が出来ることをあなたにどんなに小さなことでも……。そこから私はあなたと向き合おうとした」
「そうなんだ……。でもね先生。私、先生が毎日私の所に来てくれるのが嬉しかったんだよ。私にはもう誰もいないんだって思っていたから、それでも先生は毎日私に会いに来てくれた。先生だけが私に会いに来てくれる唯一の人だったから」
また先生は天井を眺め
「もう繭ちゃんには私は必要ないよね」と。
「ううん、私にとって先生はずっと必要な人だよ。例え、あえなくなっても、私は先生と一緒にいた時間を忘れない。鷺宮先生と言う人がいたことは私のこの胸の中にずっと刻み込まれているんだから、私がこの世を去るまでずっと、ずっと刻み込んでおかないといけない人だから」
「うふふ、繭ちゃんも浩太と同じこと言うのね」
「同じ事?」
「うん、あなた達二人ほんとお似合いだよ。なんか妬けちゃうくらいお似合いなんだよ。だから私はとっても安心できてるんだ。……、ねぇ繭ちゃん」
先生は私にそのやせこけた手を差し出して
「私の手を握って」
先生の手に触れた時とても冷たく感じた。
「こんなお願いしちゃいけないんだけど、でも繭ちゃん。あなたにどうしてもこの願いを押し付けたい」
私の手を握る先生の手に、力が込められた。
「私が死んだあと、浩太の事よろしくね」
「馬鹿ぁ、先生。先生は……、友香さんは、ずっと浩太さんの大切な人なんです。それは永遠に変わらないんだから」
涙が止まらなかった。
泣くもんかと心に決めて来たのに、溢れてくる涙を抑えることが出来なかった。
そしてこれが鷺宮先生との最後の会話となった。
浩太さんが来た時、先生は浩太さんが来るのを待っていたかの様に
「遅いよ、浩太」と言いながら、笑顔のままその意識を遠のかせて行った。
担当医が来て「ご家族に連絡を」と看護師に告げた。
病室には面会謝絶の札が掲げられた。
「鷺宮さん。
私たちの所にやって来た。秋島まどか先生が静かに言う。
「あとは静かに、最後の時を迎える
後わずかな時の流れが、私たちと友香さんを別れへと導く。
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