飛べ!こいのぼり
文月みつか
第1話 伝説のたい焼きの話
「登竜門という言葉がある。困難な道を突破したものは立身出世するという意味の中国の故事成語だが、これは急流を登った鯉が竜になるという言い伝えに基づいているのだ。鯉が立身出世の象徴なら、それを模して作られた我々は、もちろん縁起物である。いいか、お前たち。鯉のぼりであることに誇りを持て。ボーイズビーアンビシャス! 風を受けて、空を飛ぶのだ!」
と、父さんは胸を張って演説を締めくくった。
だけど、ぼくはもうこの話を何百万回と聞かされているので、「あーハイハイ」と口から尾びれへ聞き流す。そうすると父さんは決まって「自分のルーツぐらいきちんと心にとどめておけ」って言うんだけど、そんなに同じ話をしょっちゅう繰り返されたら、当然飽きてくる。ぼくはもっと、新しいことが知りたいんだ。
1年のうちのほとんどを倉庫の中で過ごしていて、ほんのちょっとのあいだお日様の下で活躍できるときでさえ、のぼり竿からは一歩たりとも離れられない。ぼくよりずっと寿命の短いその辺の小さな虫のほうが、よっぽどいろんなことを知っている。
「あーあ、こんな生活飽きちゃったぜ」
ぼくより20センチくらい上ではためいている兄さんが言った。
「こら、そんなこと言っちゃいけません! せっかくこうして外にいられるのだから、それだけでも有難いと思わなくちゃ」
兄さんよりさらに上にいる母さんが、赤い尾ひれを震わせる。
「そうだぞ。……ごらん、庭に我らが祝福すべき男児らが出てきた。どれ、ちょっと大きく揺れてみよう」
母さんの上にいる父さんが、精いっぱい風をつかまえて尾ひれを振ってみせる。
でも、子供たちはビニール製のイルカを膨らませることに夢中で、こっちに見向きもしない。昨日水族館へ行って買ってきたお土産らしい。世間はゴールデンウィーク真っただ中だ。
「やめてよお父さん、恥ずかしいわ」
ぼくの下で控えめにそよいでいる妹が訴える。最近、かなりませてきた。
「せめて女の子がいればもうちょっと頑張るのに」
「我慢なさい」と母さん。
「端午の節句は男の子の成長を祝うものなのだからね」
「はーい」と長めの返事をする妹。
「でも張り合いがないのよねぇ」とぼくにだけ聞こえる小さな声でつぶやいた。
つるつると竿を滑って兄さんが静かにこっちへ寄ってくる。
「あーあ、かったりー。うちの両親はなんだってこんなに真面目に職務をまっとうできるのかねえ。いや、今はまだいいよ、風があるから。だけど風がないときの俺たちゃあ、ただ竿にぶら下がってるだけでさあ。かったるいの通り越してかっこわりぃよ。そんなもん、ただの釣り上げられちまった間抜けな魚じゃねーか」
「たしかに、あの時間はつらいよね。魂が抜けてるっていうか」
「存在意義をなくしちゃってるのよ」
ひらりと羽虫をよけて妹が言った。
「お前、どこでそんな難しい言葉覚えたんだよ?」と兄さんがびっくりする。
「なんてことないわ」と得意げな妹。
「最近、物知りなテントウムシがよくわたしのそばにとまりに来ておしゃべりしていくから、自然と覚えちゃったの」
「へえ、どうりで最近口が達者になったと思った」とぼく。
「いいじゃないの。お兄ちゃんたちだってネズミとかスズメとか、お友だちがいるでしょう? それより大兄ちゃん、あのお話、してよ」
妹は上目遣いで言った。
「あ、ぼくも聞きたい。父さんの鯉のぼりの伝統がうんぬんの話はもう飽きたし」
「フッ、そうかそうか。そんなに聞きたいなら話してやろう」
兄さんは颯爽と体をひるがえし、語りはじめる。
「これは子ネズミから聞いた話だ。子ネズミは大ネズミから、大ネズミはスズメから、スズメは飼い犬から聞いたそうだ。お前たち、鯛という魚は知っているか? 知っているな、兄ちゃんが何回も話して聞かせてるから。鯛は赤みがかったウロコをしている、とてもきれいな海の魚だ。鯉とは違ってしょっぱい水の中で生きている。その鯛の姿に似せて作ったお菓子がたい焼きだ。そう、このお話の主人公はたい焼きさ。
たい焼きは、水に溶いた小麦粉を鉄の型に流し入れ、あいだにアンコを挟んで焼いたお菓子だ。頭から食べるか、尻尾から食べるかは自由。古くから庶民に愛されてきた食べ物といっていいだろう。本物の魚ではないが、それをかたどって作られたという点では俺たちと同じだ。そして当然、やつらにはやつらの使命ってもんがある。俺たちがこうして毎年吹き流されているようにな。
ところがだよ、そうやって毎日毎日量産されていくたい焼きのなかに、あるとき、疑問を持つやつが現れた。ちょうど俺のように、さ」
兄さんはそのひとにあこがれている。だからあんなふうに、「かったりー」とか「かっこわりー」とか言って、ただ与えられた使命を果たす自分を恥じているんだ。
「わかったから、続けてよ」と妹が催促する。兄さんはちょっと名残惜しそうに話を再開する。
「だからな、ある日、自分を焼いているたい焼き屋のオヤジに啖呵を切ってやったのさ。『てやんでぇ! だれが好き好んでこんなアッチィ思いしなきゃなんねぇんだ! 俺ァ嫌だね! こんな所出て行ってやらぁ!』と、な。
んで、勇敢にも海に飛びこんでいったんだ! 海ってのは広い。とてつもなく広い。陸地なんて海の面積の半分もねぇんだからな。そんなところにひとりで行くんだから、いかに肝っ玉がデカいかってもんだ。
そして、たい焼きは、人生で初めて海の中を泳いだ。うわさには聞いていたが、そこはもう鉄板の上とは別の世界さ。鯛だけじゃない、いろんな種類の魚や貝や、エビに、海藻、カラフルなサンゴ礁なんかもいる。大きいのも、小さいのも、みんな潮の流れのなかで精いっぱい命をまっとうしている。なんて素晴らしい世界なんだ!と興奮したことだろうよ。皮はふやけるし、アンコは重たいけど、そんなことが気にならなくなるほどたい焼きの心はぷかぷか浮いてビーチボールのようにはずんだって話だぜ。めでたしめでたし」
兄さんは「フー」と羨望のため息をついた。
「いいよなぁ。まさに伝説級の男だぜ」
「ねえ、ちょっと気になったんだけど」と妹。
「海を冒険したたい焼きは、そのあとどうなったのかしら?」
「ん? えーと、えーと、それはだナ……」
「威勢よく飛び出したはいいけど、たい焼きって小麦粉なのよね? そんなに長持ちするとは思えないし、海に溶けたのかしら? それとも、やっぱりほかの魚に食べられちゃったのかしら?」
妹よ、そこは突っこんではいけないところだ!
兄さんは答えられずに「ウーン」と唸っている。
ぼくは助け舟を出すことにした。
「でもほら、そのままあっさりいなくなっちゃったら、こんなふうに伝説にも残らないんじゃないかな?」
「言われてみればそうね。……じゃあきっと、海の生活になじめずにオヤジさんのところに帰ったのね。それで、自分は海を見てきたんだぞって自慢げに仲間に言いふらしたんだわ」
「なんだって!?……ならいっそ、海の藻屑になってくれてたほうがよかったな」
兄さんが風もあるのにがっくり頭から垂れ下がる。さっきこのポーズはかっこ悪くていやだって自分で言ってたのに。
「ちょっと待って。海水でぶよぶよにふやけたたい焼きなんて、だれも食べたがらないよ。きっと店には戻らなかったんじゃないかと、ぼくは思うけどなぁ」
「……だ、だよな。くそ、おどかしやがって。やっぱり、しばらく海で泳いで旅をして、その姿を見ただれかがこうして語り継いできたんだよ。うん、そうにちがいない」
「あらそう。もうどっちでもいいわ」
妹はひらりと身をひるがえして、近くにとまった赤いテントウムシとかしましくおしゃべりを始めた。まったく、気を遣わされるこっちの身にもなってよ。
「なぁ、弟」と、すっかり息を吹き返した兄さんが小声で言う。
「え、なに?」
「俺さぁ、やっぱりあの伝説のたい焼きはすげぇかっこいいって思うんだよ。妹がなんと言ったってな」
「うん、そうだね」
さっきは妹の突っこみに本気で落ちこんでいたけど。
「だろ? だからな、俺はそういう生き方を選ぶことにしたんだ」
「……へっ?」
ぼくは開いた口が塞がらない。と言っても、閉じようと思っても閉じられない構造なんだけど。
「今夜、ダチのネズミっ子が来てよ、俺の体をつないでいる紐をかみ切ってもらう手はずになってんのよ。だからまぁ、これがお前らと過ごす最後の端午の節句になるかもしれねぇ」
「えっ、ちょっと待ってよ兄さん……」
「お前の言いたいことはわかるよ。風を受けて目いっぱいはためいて、子どもの成長を祝い、祈る。それが俺たちの本来の使命だ。それを放棄して自分のために生きようってんだから、かなりわがままなこと言ってるのは自覚してるぜ。父さんと母さんは悲しむだろうってこともな。けどよ、それでもこの気持ちは、どうにもなんねぇのよ。竿から解き放たれて、大空を自由に飛び回りたいっていう衝動はな」
「で、でも、そんなにうまくいくかなぁ? 海の中は泳げばいいけど、陸じゃそうはいかないよ。いつ風が止むか、わからないし」
「バカ野郎。俺たちどれだけ長い間こうして空を泳いできたと思ってんだ。風の読みはバッチリさ。上手くつかまえて、のりゃあいい。その点、海に飛びこむたい焼きよりは分があるぜ?」
「でも、でも……」
ぼくは必死にひきとめる理由を探す。
「残されたぼくと妹はどうなるの? もう、兄さんから伝説のたい焼きの話が聞けないなんて……」
「だからさっき、たっぷり話してやったじゃねぇか。これからはお前が語って聞かせてやれ。もう何べんも聞いてるんだ、いいかげん覚えちまっただろ」
「いや、ぼくには真似できないよ、あんな迫力のある話し方は……」
「できないと思いこんでるだけさ。結局、そういうことばっかりなんだよ、やるかやらないかってな。それに、お前がやらなくたってテントウムシだのスズメだの、ここにはおしゃべりな連中がたくさんいる。お話が聞きたくなったら、そいつらが頼まなくたってぺらぺらしゃべってくれるだろうよ。そのうち、俺の武勇伝が聞ける日が来るかもしれないぜ」
「でも、でもさぁ……」
「弟よ、我が両親と妹を、頼んだぞ」
それだけ言うと兄さんは、もう一切ぼくには取りあってくれず、ただ風にのって気持ちよく泳いでいた。つまり職務をまっとうしていた。まるで、最後くらいきちっと締めてやるぜ、というように。
「あらあら、長男がこんなに一生懸命泳いでいるなんて、何年ぶりかしら?」
「やっとおのれの役割を果たす気になったか! うん、いい泳ぎっぷりだ。息子には負けてられん」
はるか高いところで、父さんと母さんが嬉しそうに話している。兄さんがどんな思いであの空を見ているかなんて知らずに。
ああ……ぼくはどうしたらいいんだろう?
本当は、兄さんがあこがれている伝説のたい焼きが、昔流行った童謡をもとにしたお話の中の存在だということを知っている。海に飛びこんだたい焼きが、たまにはサメにいじめられていたことも。泳ぎ回ってお腹を空かせ、最期に釣り針に食いついてしまったことも。
だけど、どうしてそんなことが言えるだろう?
ぼくは兄さんが大好きだ。ふだんはかったるそうになんでも吹き流しているように見えるけれど、実は内側にとてつもない情熱を秘めているところとか。なんてことのない話を、大げさに脚色して情感たっぷりに語るところとか。どうやったら楽して立派に泳いでるように見えるか、こっそり教えてくれるところとか。
本当は、いなくならないでほしい。
全力でひきとめたい。
だけど、カッコいいままでいてほしい。
兄さんが何よりもいやがっている、ただ竿にぶら下がっているだけの魚が、あこがれのたい焼きの最期の姿だなんて言ってがっかりさせたくない。
ぼんやり宙を見つめて思いあぐねていたら、庭の木の枝にとまっているスズメくんがぼくを見て不思議そうに首をかしげた。
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