誰も死なない事件帳

小林秀観

表裏の者たち

人の顔の裏 第一

 寒露の空を行く鳥獣の声に目を覚ましても、怯えはこの男と無縁のものだ。

 それは決してこの男が強いからではない。人間がまだ地下や洞窟で暮らしていた昔からずっと不可思議な力、つまり魔術は獣たちだけのものなのだから仕方がないという諦め。


 そんな事よりもこの男は谷を渡る風の冷たさに収穫の季節を感じて腹を鳴らし、店先に並べた遺物を眺めては古い暮らしに思いを馳せる。

 そういう男なのだから、他の者たちのように獣の声で怯えたりはしない。

 それはこの男、ケロウジが採取屋である事も一因かもしれないが。


「ありゃ、また無くなってる」

 ケロウジは寝床から体を起こし、店にもなっている狭い山小屋の土間を見ながら呟いた。

 そこには趣味で掘り当てた土器や斧なんかが並べてあるのだけれど、昨日の晩まで置いてあったはずの壺が無くなっている。

「まぁいいか。ふあぁ……」

 いつもの事なのだけれど、ケロウジは気にしない。趣味で掘っているだけで元から高く売るつもりの物ではないのだし、必要な人の手元に行ったのならそれでいい。そういう風に考えているので持って行ったのが誰でも気にならないのだ。


 ケロウジは実に勿体ない男だ。

 体力はあるが力が弱く、足は遅いが隠れるのが上手い。愛想はないが博愛の心を持つ。

 誰よりも命というものを尊ぶのだが、誰にも気付かれない。

 そんなんだから十九にもなるのに女っ気が無く一人暮らし。

 それでも本人は満足しているし、採取屋だから食いっぱぐれる事もない。


 採取屋というのはその名の通り、依頼された物を山から採取してくる仕事だ。

 獣や魔獣がいるであろう山には誰も入りたがらないのだから、これほど安定した仕事はない。


 魔術は獣たちだけのものだ。それを人間が使えた事は歴史の中で一度も無い。その獣たちですら、欠伸をした時にキラキラと息が光るくらいであり、自分の意思では扱えない。

 けれど獣たちの中には言葉を話し、強い意志を持っている獣がいる。それらは魔獣と呼ばれ、魔術を自由に操るのだそうだ。

 それらは全体の三割ほどしかおらず滅多に人とは関わらないのだけれど、確かにいる。

 ケロウジは、そんな魔獣を探す事を日課にしている変わり者でもあった。


 汲み置きの水で顔を洗っていると、不意に戸が開いた。

「ケロウジ、起きてるかい?」

 入って来たのは、山裾の村で馬借を営んでいる旦那だ。

 馬借の旦那は青白い顔に隈を張り付け、精一杯に微笑む。


「馬借の旦那、どうしたんですか? そんなに山道が辛かったんですか? やっぱり僕も村に住んだ方がいいかな?」

 ケロウジはあまり変わらない表情のままでそう言った。

 ここは山と人里を隔てる谷橋の目の前。そこがケロウジの家だ。

「いやいや、お前は好きなところに住めばいいよ。俺はちょっと別の事で疲れていてね。あまり寝ていないんだ」

 旦那は溜め息を吐きながら上がり框に腰を下ろす。

「一体どうしたんですか?」

 ケロウジが聞くと、旦那は一瞬だけ目に怒りを滲ませて話し始める。


「カラカサって男を知っているか? 傘屋なんだが」

「あぁ、いつも上等な着物を着ている評判の悪い傘屋ですね。知っていますよ」

「そいつに難癖をつけられて、馬を取り上げられたんだ」

「それは酷い。何頭ほど取り上げられたんですか?」

「全部だよ……」

 旦那は疲れ切って涙も出ないような様子で吐き捨てる。


 話は昨日、カラカサが馬借に荷物を届けるよう頼みに来た時の事。

「心配なので、しっかり魔力削除の首輪が付いている事を確認させてほしい」

 カラカサがそう言ったので、旦那と奥さんはカラカサを馬の元へ案内した。


 魔力削除というのは、獣が万が一にも魔術を使えないようにする事だ。それには光草という草を使う。

 光草は魔力を吸う性質を持っているので、それを利用しているのだ。

 縄に、土塀に、それを練り込んで獣除けにする事もある。


「もちろん全ての馬に首輪を付けていたから、よく考えもせず通したんだ。そしたらカラカサが一頭の馬の首輪に触って、その時に首輪が外れたんだ……」

 旦那は頭を抱えながら続ける。

「外れるわけないんだよ……しっかり確認してるんだから。それなのに、よりにもよってその瞬間に馬が嘶いた。それだけなんだ」

「それだけで、馬を取られたんですか?」

「あぁ。カラカサは馬が嘶いた時にたてがみから火が出たって言うんだよ。それで痛い、痛いって……。俺たちだって一緒に見てるんだぞ? 鳴いただけだったんだよ」

 人の心は脆いので、こういう時には『何かあったら怖い』という考えに囚われる。

 だから普段は信用ならないカラカサの言い分でも、村長は信じたのだという。


「その日のうちにカラカサが数人の店の男たちを連れて来て、山向こうの町の魔獣師に引き渡すとか言って……抵抗したけれど結局は全ての馬を連れて行かれたよ」

「そうですか……」

 ケロウジは、妙だなと思ったけれど口には出さない事にした。

 魔獣師とは獣や魔獣の扱いに長け、それらから人々を守る者の事だ。

だから、本当に魔獣師に引き渡す約束をしたのなら魔獣師が引き取りに来る。

 そうでなくとも痛い思いをした馬を自分で連れて行くなんて、おかしな話だとケロウジは思った。


「もしかすると、今日は馬を取り返して欲しいとか?」

 ケロウジは聞いたが、旦那は首を横に振る。

「違うんだよ。実は苦労を掛けている妻に山菜を食べさせてやりたくてね。俺は他の馬借に馬を借りられないか聞きに行って遅くなるだろうから、悪いけど家まで届けてもらえるかい?」

「はい。その依頼、お受けしますよ」

「ありがとう。それじゃあ」

 そう言うと、旦那はふらつく足を引きずって山道を降りていった。

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