第7話 二重生活のはじまり(2)

 王都を発った翌日、郡都カルディツァに帰還した。郡都の屋敷に滑り込んだ馬車を迎えたのは使用人の慎ましい服装をした黒髪の少女。


「おかえりなさいませ、ご主人様」

「ただいま、クロエ。休めたか?」


 すっかり疲れが抜けたのか、うら若き十五の乙女が見せるみずみずしい微笑み。


「……ところで、今はお二人だけですか?」


 彼に続いてユーティミアが馬車から降りてきた以外、家政婦長のヘレナが見当たらないとクロエは首をかしげた。彼はヘレナから預かった書簡を差し出す。


「エレーヌからクロエ宛てに手紙を預かっている。他の使用人たちもだ。クロエから皆に渡してもらえるか。そこに全部書いてある」

「……かしこまりました。お預かりいたします」


 宛名に家政婦長の筆跡を認めた彼女は書簡を屋敷へ持ち帰った。ヘレナの留守中に家政婦長代行を務める最年長の使用人をはじめ、主要な使用人たちにほどなく書簡が行き渡った。


「ご苦労だったな、カロルス、主査殿」


 アグネアことラエティティア・クラウディアが屋敷に戻った彼を迎えた。留守役を引き受けた彼女には執務室と別に屋敷内の一室が寝室として特別に与えられている。


「留守を預かってくれて助かった、アグネア殿」

「将校殿が気にしておられた例の懸案も含めて、ようやく進められそうです」

「それはよかった。引き続きお世話になります」


 敬礼したアグネアに答礼したユーティミアが持ち場に帰っていった。郡都の屋敷は政庁の機能を兼ねており、王都から派遣された官僚が詰めている。休みを取らず持ち場に戻る生真面目な大蔵官僚を見送って、二人は話を続けた。


「ユーティミアが頑張ってくれたおかげで予算の目途がついた。手つかずだったいろんなことに着手できそうだぜ」

「これでまた貴殿の借金が増えるのか。はっはっは、この国の貴族らしくなってきたじゃないか」

「したくて増やしてるわけじゃねーけどな! 借金王なんて俺はごめんだ」

「まぁまぁ」


 そう自嘲する彼を笑ってなだめつつ、アグネアはこう言った。


「相手がサロニカの商人でなかっただけよかったと思っておけ。連中は少なからずの貴族にカネを貸して懐に食い込んでいるからな」

「サロニカの商人って、あの大麻草作ってた連中の親玉か?」

「ああ、サロニカには海上交易で巨万の富を築いた商人がごまんといる。堅気かたぎな者もいるが、それはごく一握りというのがもっぱらの話だ。先の大麻の件もそんな連中の一人だろう」


 すると一転、彼女は笑みを消して真顔になった。切れ長の目に潜んだ眼光は鋭い。


「そんな奴に弱みなんぞ握られてみろ、前の領主みたいなことになるぞ。身辺に気をつけることだ」

「……ご忠告、痛み入るよ」


 この後、シャルルは東に隣接するキエリオン郡の屋敷に出向き、農業改革にいそしむ郡司代行フリッカ・リンナエウスと今後の方針を話し合った。かと思えば西にも馬をはしらせて海沿いのアルデギア地方で漁村や塩田を訪ねたりと慌ただしい。


 気づけば日は五度いつたび昇り、彼は再び単騎で街道を王都へと駆けていった。


 ***


 空が白み始めた日の出前に領地を発って、およそ半日で王都に着いた。

 郊外にあるクラウディア家の別邸に馬を預け、先週宣言した通りにオクタウィアの剣の稽古を終えるころには正午過ぎ。初春の陽射しに浮き出た額の汗を拭いながら、足取りも軽やかに自らの宿へ戻る。

 やってきたのはユーティミアのような地方に派遣された官僚が王都に戻ったときに使う官舎の一軒を借り受けたものだ。カルディツァに移り住む前、王都に住んでいた時の客人向け邸宅よりもこじんまりとしている。浴場や厨房、食堂も共用となっているが、前の邸宅よりはずっと安くて済む。


「ただいま! エレーヌ!」

「おかえりなさいませ、シャルル様。お待ちしておりました」


 本来の家から仮初かりそめの宿に来たというのに、しばらくぶりに逢った恋人の穏やかな笑みに迎えられると安らぎを覚える。不可思議な気持ちだ。


「クロエから書簡を預かってる。こいつを先に渡しておくよ」

「かしこまりました。シャルル様がお着きになったらぜひお城に来るようにソフィア王女様からご伝言をいただいてます」

「先週の埋め合わせだな。わかったよ」

「私もご一緒いたします。出発の準備は済ませています」


 二人で王城に向かう道すがら、彼は所領であった出来事をヘレナに伝えた。離れて暮らすからこそ共有すべき話は多い。話し尽くす前に王城に着いてしまったほどに。

 ヘレナを帯同したシャルルは待つことなく応接室へ通された。彼を迎えたソフィア王女は心なしか血色が良い。


「ご機嫌麗しゅうございます、ソフィア様」


 部屋に入るや否や、彼は跪いて首を垂れる。王国の『資格者』ではなく、ソフィア王女の騎士として挨拶を述べた。


「ごきげんよう、シャルル。いつ王都に着いたのですか?」

「二時間ほど前でしょうか。今までオクタウィアの剣術の稽古をしておりました」

「彼女の剣術指南役ですものね。フフフッ」


 そこへ王女に仕える金髪の従者イリニがリンゴ酒を運んでくる。食前酒である。


「あとは私がやります。イリニは戻ってお食事の準備を」

「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」


 銀髪の家政婦長ヘレナが食前酒と杯を受け取り、二つの杯に酒を注いでいく。王女は上機嫌で銀杯を手にリンゴ酒を飲みつつ、彼にいろんな話題を投げかけた。


「官舎を今日の宿にしたと聞き及びました。そんな狭いところに寝泊まりするより、住み慣れた前の家のほうがずっとよいでしょうに」

「寝泊まりするだけですし、大きすぎるとカネもかかります。ただでさえ財務状況を考えろと部下に白い目で見られまして」


 この一週間、ユーティミアと話し合って削れる支出はなるべく削って領地の経営に回すことにした。金勘定にうるさいだけでなく、官僚たちが使っている官舎を借りる段取りをユーティミアがつけてくれた経緯もある。

 そのうちに話題は彼の領内へと及ぶ。


「フリッカと何かやっていると聞き及びますが、どうですか」

「痩せた土をどうやって回復させるか、一緒に悩んでいるところです。竜の生き血を吸った土で一時的に回復はできますが、それだけでは元に戻ってしまいます」

「そうですね。では竜がもう一度出れば、それを討伐して土に血を撒きましょう」

「ソフィア様、それ笑えません」


 にっこり笑みを浮かべて言った王女に、彼は引きつった顔をして応じた。


「まあ、案は一つ二つ出始めた所です。フリッカにはいろいろやらせてみます」

「あ……そういえば、レンディナ村で収穫されたリンゴがどうなったか、シャルルに話していたでしょうか」

「いえ、お聞きしていなかったかと」


 買い取ってもらう段取りをつけた後のことを彼は知らなかった。ソフィアはリンゴを買い取ったワイナリーに通い詰めていたという。


「リンゴ酒として発酵、醸造させていますの。とってもいい香りで口に含むのが待ち遠しいくらい。その時はシャルルにも教えますから飲みにいらっしゃい」

「それは楽しみです。あれは美味しいリンゴでしたから」

「そのことなんですけど……シャルル、あなた味覚がどうかしているのかしら」


 気持ちよく銀杯を傾けていたソフィアの手が止まった。王女から味覚がおかしいと言われて、少々心外な気分が顔に出てしまったかもしれない。


「いえ、ごめんなさい。他意はありませんの。ただ、今から思うと少し……いいえ、色々気になることがあって」

「……?」


 それが何か尋ねようとした矢先、再び金髪の従者イリニがやってきた。


「姫様、資格者様、正餐せいさんの準備が整いました。広間へお越しくださいませ」

「あら。まぁ、よいですわ……さぁ、冷めないうちにいただきましょう!」


 そう言ったソフィアの顔には明るい朱色が差した満面の笑み。


(女心と秋の空、ねぇ……ま、いっか!)


 シャルルもソフィアの心変わりをそれほど気に留めなかった。


 ***


 ソフィア王女との正餐の後、シャルルは王女と一緒にアルス・マグナを訪れた。先に着いていたオクタウィアがカリスと会話しているところに彼らは居合わせた。


「お待ちしておりました、ソフィア王女殿下、騎士殿」

「待たせちまってすまねぇな」

「いえ……事情は聞き及んでいます。どうぞこちらへ」


 カリスに先導されてシャルル、ソフィア王女、オクタウィアの三人が案内された場所は古いコンクリート造の建造物の内部。前回の講義に使った一室よりも高さと奥行きのある空間がそこにあった。


「先週講義を受けた場所とはだいぶ違うな」

「はい。魔術の演習を行うには少し広さがあったほうが良いので」


 王女が何重ものはりけたに支えられた高い天井を見渡して言った。


「古ぼけた雰囲気ですけど、かなり頑丈な作りをしているようですわね」

「はい。主に実験で使います。爆発を起こしても周りに被害を及ぼさないよう、ここは堅固な作りになっています」

「爆発って火薬かやくでも使うのか」

「か、や……なんですって?」

「か・や・くっていう火をつけて爆発を起こす粉薬こなぐすりのことさ。硝石しょうせき硫黄いおう、あとは木炭きずみを混ぜて作る……って、この国には無いのか?」

「シャルルの国にはそんなものがあったんですの?」

「はい。障害物を爆破したり、砲弾――硬い石や金属の塊を筒から撃ち出して城壁や門を壊すのに用いました」


 目をキラキラさせた王女が興味津々で聞いているのとは対照的に、小さな大賢者がにべもなくこう言った。


「原理自体も理解はできますが、爆発による破壊が目的であれば魔術で充分可能ですね。さて、話を戻させていただきます。ここに来ていただいたのは火気を扱う魔術を使うためです」

「火の魔術か。たしか、アグネアが得意なヤツだよな」


 シャルルが目を向けるとしかと頷くオクタウィア。


「はい、まさにそれです。叔母は私と違って火と土の魔術属性を持っていますので、炎の扱いを得意としています」

「火と土……火山を表す魔術属性、象徴石は赤碧玉ジャスパーだったよな」

「先週の講義をしっかりとおぼえていらっしゃる。良い傾向です」


 どうだと胸を張ったシャルルは、すぐさま別の問いを口にする。


「うちの家政婦長は水の魔術が得意だが、属性による得手不得手ってのはやはり出るものなのか?」

「ええ。ヘレナは水と魔の魔術属性を持っています。だから特に水の魔術に関してはかなりの使い手ね」


 今度は王女がそう言った。それを受けて彼の脳裏に新たな疑問が閃く。


「なるほどなぁ。だが、前に火を出しているのを見たことがあるが……」

「六門それぞれの属性の初歩的な物であれば、多少の得意不得意はあれど、誰しもができて当然のことです」

「その初歩ってのがどれぐらいのモンなのかどうにもピンと来ねぇんだが……」

「難しいわね、どう伝えれば……カリス、なにかうまく説明できないかしら」


 弱々しく肩をすくめるシャルル。うーんと低くうなって額にしわを寄せたソフィア王女が小さな大賢者に目を向けた。


「例えば、普段あまり体を動かさず、運動が苦手な人間でも、歩く、走ると言った基本運動は可能ですよね。初歩的な魔術のほとんどはそういう程度のモノだと言えばおわかりいただけますか?」

「……つまり、現状の俺は歩くこともできない赤ん坊と同じってことか。はぁ」


 先日、女王に自ら「生まれたばかりの赤子」と卑下して語ったのが全くの比喩などではなかったと自覚して、シャルルは頭をかかえる。


「だからこそですよ、騎士殿。差し当たっては親御様から受け継がれた鍵剣のこともあります。おそらく火か聖の魔術であれば相性は良いはずですからまずは実際に火の魔術の初歩の初歩から始めましょう」

「なるほどな! さっそくやってみるか」


 前回の講義の際に教わった基本的な呪文の詠唱。その前にやることがあった。


『ここは山と河と風が出会う場所、つまりマナを感じやすい所といえます。深呼吸をしてみるとよろしいかもしれません』


 いつか銀髪の家政婦長からそう言われたのを思い出した。深呼吸をして心身を落ち着け、マナの動きを感じ取ろうと集中する。剣を握りしめて気を感じるように。


「コマンド・アクティベーション――オリジンタイプ・バリデーション、ファイア」


 目を瞑った彼はアグネアが起こしたように火を呼び起こす様を脳裏に思い浮かべ、自らの内に在る魔力オドにこう呼びかける。


「わが身に宿る火の魔力オドよ、わが指先に一筋の灯火をおこしたまえ……ッ!」


 かっと目を見開く。わずかな光が指先に灯っている――そんな脳裏に描いた通りにはならなかった。


「なんも起きねぇぞ」

「……ふむ? ではもう一度です」


 促されるままに唱えるが、種火どころか、煙も出ない。

 二度、三度と繰り返し額にどれほど汗が滲むも、魔術が起動する気配は微塵も自覚できずにいた。


「初めて剣を握ったときだってここまで覚束おぼつかなかった記憶はねぇんだが……こんなに難しいモンなのか?」

「……騎士殿、こちらを持っていただけますか」


 カリスが傍らに置いていたランタンを手に取ると温かみのある光が辺りを灯す。


「それ便利な道具だよな。燃料いらずで明かりが取れるんだろ」

「はい、原理的には乳飲み子でも扱えるほど簡単な魔道具です」

「らしいな。だが……」


 カリスからランタンを受け取った瞬間、ふっと明かりが消えてしまった。肩を落とした彼は自嘲気味につぶやく。


「……あぁ、やっぱりだめか。ありがとう、返すよ」


 彼が差し出したランタンの取っ手をカリスが握ると再び明かりが灯った。空色の瞳を見開く小賢者のこわばった頬のしわが浮かび上がった。


「待ってください……やっぱりだめか、とおっしゃいましたか」

「ん、それがどうした」

「もしかしたら、以前にもこのようなことが?」

「ああ。たしか王都に来た最初の晩、ランタンを貸してもらってこうなった。代わりに蝋燭ろうそくを貸してもらったから事なきを得たが」


 すると小さな大賢者は腕を組み、しかめっ面をして長考に入る。


「自然に流れ出るマナを活用するだけの簡単な道具、マナの流れを意図して止める方が逆に難しいはず……しかし、エールセルジーは騎士殿の魔力を明らかに使っていた……辻褄つじつまが合わない……待って、だとすれば……」

「どうした。やはりなにか理由でもあるのか?」


 立ち尽くしたままぶつくさと呟いていたカリスが固まった。


「騎士殿……このあと時間はありますか?」

「飯のお誘いか? あいにくうちの家政婦長が美味しい夕餉を作って待ってるんだ。またこんどにしてくれ」

「そんなどうでもいいことじゃありません!」


 苛立ちを露わにした小賢者の罵声にムッとしたシャルルはもちろん、ソフィア王女とオクタウィアもまた談笑を止めて真顔になる。


「どうでもいいって……そいつは捨て置けねぇざまだな、おい」


 苛立ちを隠さない険悪な雰囲気に場が凍り付く。居たたまれない空気に深呼吸して息を整えた小さな大賢者カリスはこう切り出した。


「騎士殿の魔術回路を調べさせていただきたい。これはとても重要なお話です」


 有無を言わさぬその目つきに思わずシャルルはつばを飲み込んだ。

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