第一話 あしたなんてのぞまない( 七 )

 静まり返ったなかでバケモノは仔どものくびに歯を宛がったまま、うなり声を漏らした。


さつか』『おれであったら、悪いか』 間を置かずの反駁はんばく


 かラん、風鈴の音が、刹貴が声を出すたびに聞こえていた。風鈴とは正反対の、淡白な、低い声だった。


『気に入らぬ。このムスメ、かばいだてする気であろう』


 バケモノが声を発すると、皮膚が裂けて血が滲んだ。


『いかにも。その人間はおれの客だ。才津さいつ殿の紹介を受けた人間だ。喰うには無礼が過ぎるぞ、千穿ちせん


「きゃく」


 聞くでもなくその情報を受け入れていた仔どもは、変に思って顔を上げた。ますます傷をこしらえることになったが、どうせこれから死ぬのだし今さらだと思ったから気にしない。


 声のする方向には誰の姿も見えない。どうやら町のずいぶんはずれまで来たらしく、ただ背の高い生垣いけがきに挟まれた木戸があり、その奥に藁葺わらぶき屋根の影がのぞいていた。それが周りの唯一の建物のようで、それより先は木々深く茂る森に分け入ることになる。こちらにいるのだろうか、嘘を吐いてまで見ず知らずの仔どもを庇ってくれる妙なやつがいるのは。だって誰かにものを求めたことは、いまの一度も仔どもにはない。


 でも、庇ってくれなくてもよかった。


 沈黙が漂ったのち、バケモノは、千穿は、ゆるゆると仔どもから離れた。


『      、才津さまのか。そうであるならば、仕方なし。   諦めよう』


 ため息でも吐きそうな声音だった。


 諦めなくてもいいよ、と言おうと思ったのに、喉は枯れていて声が出ない。


 千穿は仔どもを見下げて言い放った。


『命拾いをしたな、ムスメ。二度目はないと思えよ』


 でも、とほかの、目玉がいくつも寄り集まった化け物が反論した。それを忌々しげに千穿は切り捨てる。


『聞かん、引く』『どうせ風鈴を買えばただの人間風情、すぐに死ぬんだ、今喰ったって、』『何度も言わせるな』


 眼光鋭く睨みつけられ、そのバケモノは仔どもを見、名残惜しそうに転がりだした。


 千穿に追い立てられていくバケモノたちを、仔どもはやりきれない思いで見つめた。背を向けて去り、ふと消えたその後ろ姿を、呼び止めようとするのに叶わなかった。声が、喉に張り付いていたせいで。


『風鈴を、しっかり握っておけ、人間』


 バケモノたちの姿がすっかりかすみとなったころ、また声が聞こえた。風鈴に溶けたその声は、抑揚こそないけれどもとても美しい音をしていた。


「ふうりん」


 鸚鵡おうむ返しに仔どもは独語どくごした。やっと出た声は、細いけれども硬質だった。


『そうだ、風鈴。それは破邪退魔はじゃたいまの、やくよ けの風鈴だ。お前の姿を消すだろう、人間』


 はじゃたいまの、何だって。


 難しいことを言われても、莫迦ばかな仔どもには分からない。理解できたのは一言だけだ。姿を消す、頭に入ってきたのはそれだけ。


 すとんとなぜだか納得できた。


 そうか、これが。


 世界から自分をへだてたものなのか。


 なんだ自分はやはり、母からも疎まれていたのか。その存在を見たくないほどに。


 もしかしたら、屋敷の人間も仔どもを無視していたのではなくて、見えていなかったのかもしれない。


 転がっていた、母から唯一与えられたものを見る。痛む足を引きずって、手を伸ばす。しばらくその輪郭を確かめて、綺麗なままだと分かると安心して仔どもはそれを地面に戻した。


『人間』


 いぶかしむような声が仔どもを呼んだ。


 仔どもはその声をするほうを見つめ、ぽつりと漏らした。


「いいの」


 母が自分をいとうて渡したものが、すこしのあいだ仔どもの命を永らえた。見てほしかったときには見てもらえなかったのに、いったい母は、どれだけ自分が嫌いだったのだろう。


『いい、とは』


 硬い声音はそう訊き返した。


「消さなくったって、かまわない。見えてもいい。死んじゃって、かまわなかった」


 これまでのことはすべて期待した、その結果。期待してもいいことなどひとつもないのに期待した、その帰結きけつ。だから。


「いいんだ」

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